教会のロゴについて
この教会のロゴは、ニッカウヰスキーの代表的なイメージ「キングオブブレンダー」をデザインした大高重治さんによって1986年にデザインされたものです。大高さんはクリスチャンでしたので、そのご縁でロゴを作成していただきました。
ロゴの下方にある開いた本は聖書です。聖書を基盤とし、キリストの十字架の救いを見上げる教会となりたいと願い、当教会3代目大友幸一牧師が依頼し完成したしました。
ロゴの下方にある開いた本は聖書です。聖書を基盤とし、キリストの十字架の救いを見上げる教会となりたいと願い、当教会3代目大友幸一牧師が依頼し完成したしました。
歴史と紹介
私たちの教会は大きく分けるとプロテスタント教会であり、さらに福音派の「保守バプテスト同盟」(http://doumei.holy.jp)に属する教会で、1967年宮城県塩竈市で、アメリカの保守バプテスト宣教団 (現ワールドベンチャーhttps://www.worldventure.com)から送られた宣教師たちによって始まりました。「保守」という名前は、聖書に書かれている事をそのままに受け入れて行くという意味です。「バプテスト」とは様々な洗礼の流儀がある中で「浸礼(しんれい)」という形を取る事を特徴とし、個人が自覚的に信仰を持つ事を大切にしています。
教会は歴史の中で仏教と同じように流儀、流派が分かれてきました。しかしどんな流派が多様であったとしても、聖書に基づき以下の事を信じる教会は歴史的に正当な教会であり、枝葉の違いこそあれ本質的に同じ教会だという事が出来ます。
1. イエス・キリストの死と復活を通しての人間の救い。
2. 天の父、子であるキリスト、聖霊は本質的に一つの神であること。つまり三位一体(さんみいったい)の神。
3.キリストの地上再臨 。
私たちも以上の事を信じ、お伝えする教会です。ですから、三位一体を否定するエホバの証人、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)等の諸教会とは一線を引いております。
また、私たちの塩釜教会は、近隣の町々とそこに住む人々に積極的に奉仕していきたいという思いをいつも持っています。その現れとして、支援活動、英語教室、ゴスペル教室、チャリティーコンサートなどを行っています。また、近隣の諸教会と「ゴスペルファミリー」という名前で協力関係を持ちながら、一緒に活動を続けています。
教会は歴史の中で仏教と同じように流儀、流派が分かれてきました。しかしどんな流派が多様であったとしても、聖書に基づき以下の事を信じる教会は歴史的に正当な教会であり、枝葉の違いこそあれ本質的に同じ教会だという事が出来ます。
1. イエス・キリストの死と復活を通しての人間の救い。
2. 天の父、子であるキリスト、聖霊は本質的に一つの神であること。つまり三位一体(さんみいったい)の神。
3.キリストの地上再臨 。
私たちも以上の事を信じ、お伝えする教会です。ですから、三位一体を否定するエホバの証人、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)等の諸教会とは一線を引いております。
また、私たちの塩釜教会は、近隣の町々とそこに住む人々に積極的に奉仕していきたいという思いをいつも持っています。その現れとして、支援活動、英語教室、ゴスペル教室、チャリティーコンサートなどを行っています。また、近隣の諸教会と「ゴスペルファミリー」という名前で協力関係を持ちながら、一緒に活動を続けています。
ビジョン
私たちの教会が掲げ続けている「夢」の宣言文です。
①私たちの夢は、傷つき、気落ちし、人生にあせりいらだち、迷っている人々が、愛と受容と助けと希望と赦しと導きと励ましを見出す場所になることです。
②私たちの夢は、暗いこの世にあって光輝く神の国(御国)を実現することであり、七千人を教会の交わりに迎え(ローマ
11:4)、愛し合い、学び合い、笑い合い、調和をもって暮らすことです。
③私たちの夢は、塩釜市、多賀城市、七ヶ浜町、利府町、松島町(いわゆる二市三町)及び仙台市東部に住む二十万の人々に良きおとずれを伝えることであり、同時に世界宣教を担うことです。そのために他教会との協力を惜しみません。
②私たちの夢は、暗いこの世にあって光輝く神の国(御国)を実現することであり、七千人を教会の交わりに迎え(ローマ
11:4)、愛し合い、学び合い、笑い合い、調和をもって暮らすことです。
③私たちの夢は、塩釜市、多賀城市、七ヶ浜町、利府町、松島町(いわゆる二市三町)及び仙台市東部に住む二十万の人々に良きおとずれを伝えることであり、同時に世界宣教を担うことです。そのために他教会との協力を惜しみません。
塩釜聖書バプテスト教会沿革
1.保守バプテスト同盟誕生
1800年代初頭、アメリカバプテスト教会の中で、世界宣教(アメリカ国外での宣教)に対する情熱が生まれ始めました。いくつもの宣教組織が作られましたが、よりよい活動をする為に一つの宣教団体へとまとまりました。そして出来上がった大きな宣教団体が、奴隷制度の問題で南部と北部に分かれました。北部は奴隷制を認めませんでした。その北部の団体はひとつになって同盟をむすびました。しかし、その新しくできた同盟の中でも自由主義 (聖書を理性的に理解しようとする見方)と根本主義 (聖書は全て神の言葉であると信じる考え方)との摩擦が生じました。それで後者の人々が新しい組織を1943年発足させました。それが“保守バプテスト”の始まりです。彼らは様々な国々に伝道者を送りました。日本には第二次大戦後、東北地方を中心に伝道者を送りました。そして各地に教会ができ、平行して仙台には神学校が設立され、岩手県和賀郡錦秋湖にはキャンプ場が作られました。時至り、1964年、日本において“保守バプテスト同盟”が設立されました。
私たちの塩釜聖書バプテスト教会はこの“保守バプテスト同盟”の一教会です。現在80以上の教会がこの同盟に加わっています。
2.塩釜聖書バプテスト教会設立の経緯
a)伝道開始の時期と場所
1951年 6月17日から約 8年間、ヨハネ・マクダニエル宣教師が、塩釜伝道に関わり、塩釜の開拓的役割を果たされました。当時、東北本線の塩釜駅前広場で映画「偶然でしょうか。」を上映。約5,000 人が集まり、ポケット聖書同盟から聖書のプレゼントがあり、人々は奪い合うように受け取りました。
b)教会の設立まで
水曜日の夜に塩釜市公民館において、フォローアップのために仙台からマクダニエル師が来ていました。約100 人程が集まっていましたが、公民館や 借家などの利用を断られ、一時、外で集会をもちました。最初の伝道から熱心に求道する人々は、約17名と絞られてきました。その中から1952年4 月13日に3名の男女がバプテスマを受けました。また、1953年2 月1 日には、映画伝道会を開催。100 名の部屋に約200 名が参加。天幕伝道を3回程行いました。安藤喜一師、柿崎正師が説教の奉仕をしました。その都度、多くの決心者が起こされましたが、その中の数人は、既に教会堂をもって伝道していた塩釜市内の教会に流れていきました。天幕伝道の開催場所は、現在の塩釜郵便局周辺広場、元警察署前広場と元塩釜駅近くの広場で行われました。塩釜は、 道徳的には退廃した町でした。集会や伝道会などに集まる人の半数は、酔払いということが度々ありました。また出席者が多く、フォローアップが不充分なために求道者も定着せず、結婚を機に信仰から離れる人もいました。
1957年 9月アリス・フォーマン宣教師とジョーンズ師が塩釜の泉ヶ丘に住み、マクダニエル師と共に塩釜での伝道に従事するため、旧塩釜駅近くの建物を借りて集会を開きました。その後、本塩釜駅向かいの川村編物学校を借りて集会を開きました。宣教師たちは、一軒一軒訪問し、また、英語クラスを開きました。日曜日には、聖書クラスも始めました。出席者は、約 6-8名でした。
1958年10月 ジョーンズ師、フォーマン師が塩釜に住んでから最初のバプテスマが執り行われました。青年男子2名、女子3名でした。翌年も受浸者が起こされましたが、仕事や学校のために教会を去っていきました。
1960年 5月 最初の主日礼拝が、川村編物学校で開かれました。メッセンジャーはハッテンロック師。同じ5月に、第3回宮城修養会が、塩釜の同じ集会所でもたれ、約50名の出席者がありました。この後、夏に大きなテントを空き地に張り、伝道集会をもちました。塩釜の人々は、塩釜の地においてキリスト教会があり、伝道していることを知るようになりました。
1962年11月 教会で初めての結婚式が執り行われました。また、この頃にハッテンロック師夫人とジョーンズ師は、英語の聖書クラスを教えていました。1963年3月 ハッテンロック宣教師は、病気のために帰国。マクダニエル師は、神学校と仙南教会の働きが中心となり、塩釜に来る時間が少なくなってきました。この頃に、当時神学生だった町田末弘師などが、塩釜伝道に協力しました。
1965年5月 宮城修養会が下馬公民館で行われました。出席者は、70名以上で講師は当時の山形東原教会の鈴木師。ジョーンズ師の自宅で月一回行われていた学びに多くの若い女性が学んでいました。毎回出席していた10数名のうち5名がキリストを受け入れました。
この9年間で約25名がバプテスマを受けて主に従い、塩釜に住む多くの方々がキリストの教えに触れるようになっていきました。町田末弘師は1967年3月バプテスト聖書神学校(現仙台バプテスト神学校)を卒業と同時に塩釜聖書バプテスト教会の初代牧師として就任しました。翌年の1968年12月10日に事実上教会設立となりました。
c)主な宣教師
ヨハネ・マクダニエル師 (John "Jack" Mcdaniel)
1951年6 月から8年間塩釜の伝道に従事。塩釜の開拓期にその労を負われました。
グラディス・ジョーンズ師
1957年9 月から9年間塩釜の伝道に従事。マクダニエル師が仙台聖書バプテスト教会の形成を始められたため、マクダニエル師と共に塩釜の伝道に従事されていたが、塩釜の教会設立に仙台教会の方々数名と労されました。
ジョージ・ハッテンロック師
1960年家族とともに塩釜泉ヶ丘のミッションが用意した家に住み、塩釜での働きに従事しました。この頃から日曜日の朝の礼拝が始まりました。
ジム・ペナー師
1966年 8月末に家族と共に塩釜市泉ヶ丘に引っ越して来られました。1971年までの5年間、 翌年就任した町田末弘師と共に塩釜で奉仕されました。
3.教会成長の経緯、要因と地域社会の変遷
町田牧師の就任(1967年3 月)と同時に、下馬折越に一軒家を借りて集会を持つようになりました。ここに移ってからは、一切の集会が一箇所で行われるようになりました。川村編み物教室での集会出席していた方々は、約20名でしたが、下馬折越集会所に移ってからは、出席者に変化が起こり、近隣の方々が 出席するようになりました。高校生たちは、本塩釜の頃から続けて求道していました。また、青年たちが救われて下馬折越の働きは大いに祝福されました。更に祈り求めていたクリスチャンホームが与えられ次々と青年たちが救われ、主にあって結婚に導かれた若い男女がクリスチャンホームを形成し、増えていきました。このような中で会堂建設の必要を覚えて祈り求めていましたが、1970年に主の 導きにより現在の笠神に114 坪の土地が与えられました。しかし、会堂を建てる資金もなく祈り求めている時に、折越の集会所の場所を提供してくれていた家主の都合により転居せざるを得なくなりました。そのため、下馬駅の近く、西の入のアパートに移りました。しかし、礼拝出席者の増加などにより、礼拝 をするのは困難であったため、下馬公民館で1972年12月までの約1年10ケ月間礼拝を守りました。この西の入でも青年男女や中高年の方々が救われ祝福されました。
1972年5月に牧師を通してハガイ2: 4のみことばを示され、そして、励まされ、押し出されて会堂建設へと導かれていきました。
教会員の育成は、聖書研究(祈り会)、結婚についての学び、子育ての学び、奉仕による実践、主日礼拝を重んじることなどでした。
4.牧会者の交代や現在の牧師赴任に関わる出来事歴代の主任牧師
- 町田末弘牧師 1967年3月~1977年3月(10年間)
- 森谷正志牧師 1977年4月~1985年3月(7年間)
- 大友幸一牧師 1984年4月~2019年3月 (35年間)
- 大友幸証牧師 2019年4月~
その後、導かれて大友牧師を招聘し大友牧師家族は、当時アパートに住み塩釜伝道を開始しました。塩竈神社を中心として発展して来た町での宣教は大きな重圧を感じるものでした。しかし神は大友師にローマ11:9を通して「この土地には塩釜神社に膝をかがめていない男子7,000人をとっておいてある」と励ましをお与えになり、大友牧師もその事を受け取りました。そしてそれが後々「ビジョン7000」の宣言文へとつながっていきます。教会は塩釜宣教の拠点として塩釜市藤倉にある土地と建物を購入しました(1984年5月6日決定)が、そのころ何人かの方々が教会から離れていきました。様々な問題を抱える中で神のみわざはとどまることなく、東塩釜に一軒家(東塩釜エクレシア)が与えられ、礼拝は多賀城会堂(多賀城エクレシア)と平行して同時に行われるようになりました。大友牧師家族は東塩釜エクレシアに移り、塩釜伝道に専従しました。
しかし塩釜伝道が落ち着き、いよいよ二つの場所で伝道を展開するという 時に森谷牧師の辞任発表がありました。かねてから神学校の重荷をつげられていましたが神学校の都合により、バプテスト聖書神学校(現仙台バプテスト神学校)の働きを早く始めることになりました。11月18日に森谷牧師辞任の発表があり、翌年の1985年3月に正式に辞任しました。
その後、森谷師の代わりの牧師招聘は導かれず、多賀城は早坂柳三郎執事東塩釜は大友牧師が担当し、しばらくは現状を維持していました。やがて礼拝は、多賀城エクレシアのみで行われ、大友牧師家族は多賀城エクレシアに移り、本格的にそこでの牧会に取り組むようになりました。東塩釜エクレシアはしばらくの間、集会などが続けられましたが、次第に教会としての活動はしなくなりました。しかし2017年からアデア宣教師夫妻が藤倉に住みはじめ、東塩釜エクレシアの会堂を再び東塩釜宣教のために使い始めるようなりました。
大友牧師が牧会を引き継いでからは試行錯誤の中で、教会に変化がもたらされました。例会や役員会のもち方、時代の進歩と共に事務処理や雑務的な奉仕のあり方にも変化が見られました。また、物の見方や考え方も大きく変化しました。教会員一人一人が聖書を読み祈ること(デボーション)が強調されるようになりました。それまでの宣教師先生達などから伝えられた伝統ではなく、聖書がどのように言っているのかに耳を傾け、変えるべきところは変えるようになりました。1995年から教会員に対する訓練コースを始め、それまで牧師だけがしていた牧会が、教会員のリーダー達によってなされるようになりました。あるリーダー達は自分の家を開放して「家の教会」を始めるようになり、亘理、仙台港南、岩切、多賀城中央で家の教会が誕生しました。またアパルーム(教会員による小グループの集まり)もこれらの訓練を受けたリーダー達によって導かれるようになりました。MEBIGの内越言平師との出会いによってエスピカ(教会学校)が子供たちにとって楽しく参加できる形態なったことも大きな教会の変化でした。また仙台バプテスト神学校が翻訳発行をしているCBTE(教会主体の神学教育)のテキストの学びは、一方向ではなくインタラクティブ(相互的)な学びを促進し、かつ現場に即した深い学びを可能にし、信徒一人一人が神学をするようになりました。
2008年大友牧師は更なる牧師としての成長を求めて、誘いを受けて牧会学博士号取得コースに入学。2011年博士論文を書き終え米国Luther Rice Seminaryより牧会学博士号を取得。論文作成を通して、今後日本宣教が前進するために「家の教会」が必要不可欠であること、そして宣教は「伝道(ことば)」と「社会奉仕(行い)」の両輪によって進むという宣教論を確立しました。
2009年には米国トリニティ神学校で学びを終えた大友幸証師を副牧師として招聘しました。幸証副牧師夫妻を通して子供の英語教室(キッズブラウンしおがま)が始まり、多くの地域の方々が平日に教会へ出入りするようになりました。
そのようなおり2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。塩釜教会は被災地にありながらも高台にあった故に津波の被害を受けませんでしたが、二つの家の教会(亘理、仙台港南)が津波によって流されました。この大きな大震災と津波の様子は全世界に放送され、国内外の多くの方々が被災地へボランティアとして来てくださいました。塩釜教会としてもそれらのボランティアを受け入れるために副牧師を代表として復興支援プロジェクト「ホープみやぎ」を立ち上げました。流されたふたつの家の教会は早い段階で復活し、近隣地域の被災者の方々に「ホープみやぎ」を通して多くの支援をすることができました。またこの支援活動を通して関係が築かれ、多くの宣教師や働き人が塩釜教会に送られてくることになりました。その内のふた家族によって2017年から東塩釜と七ヶ浜でも家の教会が始められました。
2015年2月に幸証師の按手式が執り行われ、同年4月から牧師となりました。現在2019年の主任牧師交代へ向けて少しずつ準備をしています。
5.土地購入、 会堂の建設などに関わる出来事
a)町田牧師の時代(1967年~1977 年)
1970年、土地購入。
1972年12月、会堂建築。
土地 114坪の購入は、ミッション(保守バプテスト宣教団)と会員の献金でした。建物のための資金はなく、神に祈るほかはありませんでした。この時に、町田牧師により与えられたみことば「ハガイ書 2:4」で励ましと力が与えられて全員一致で会堂建設へと導かれました。建物61坪で 700万の契約を結び建設されました。この頃の一般会計の年間収入は、110 万円、会員数25名、礼拝出席者18名でした。土地と建物で約1000万円であり、町田牧師は、後に塩釜教会15周年記念誌に「当時1000万円は天文学的数字でしかなかった。」と記しています。この頃は若い人たちが救われ教会に加えられクリスチャンホームが4、5家族ありました。会堂建設当時は一生懸命伝道に励み、熱心に学び、惜しみなく献げていましたが、建設を終えてしばらくすると霊的に疲れが出てきて教会の勢いが弱まっていきました。
b)森谷牧師の時代(1978年4 月-1985 年3 月)
1984年5月、東塩釜エクレシア土地 建物購入。
責任伝道圏伝道のビジョンが与えられて地区集会の一つとしての東塩釜集会所を購入し現在に至っています。教会はビジョンが与えられて方向性が定まり安定していましたが、集会所を求めようと実際的に動き始めた時に反対する方々が幾人かいて、その方々は教会を離れていきました。この頃から主によって教会は大きく揺さぶられていきました。購入物件は、土地と建物で1100万円でした。教会員による特別献金と借入金、また他教会からの支援によって購入されました。前年1983年は、 塩釜教会設立15周年記念事業を行い、これまでの歩みを整理し、ビジョンに向けて新たな一歩を歩み出す時でもありました。教会は後退するのではなく、前進するだけであることを教えられ主のみこころのうちに東塩釜エクレシアが与えられました。責任伝道圏による教会形成としての 伝道は面的拡大を目指していました。この年(1984年)は「伝道への挑戦」という年間目標とみことば(IIテモテ4:2 )により励まされて、勢いの弱まった状態から再び回復し力が与えられていきました。
c)大友牧師の時代(1984年4 月~2019年3月 )
1994年2月~3月、会堂改造。
1995年2月~3月下旬、一階化粧室改修。
1995年4月~6月下旬、東塩釜エクレシア修繕。
1998年7月~1999 年3 月、新会堂建設。
2004年6月、駐車場の為、隣接地(北側)購入。
2010年、教育館の為、隣接地(南側)購入。
(2011年3月11日東日本大震災発災)
2012年3月、ボランティアセンター「ホープハウス」が南側隣接地に完成
2018年4月 、ゲストハウス「祈りの家」購入。
子供伝道に力を入れるようになってから子供たちは、多勢来るようになりました。町田師の時代に建てられた礼拝堂は狭さを感じるようになり、また、子供たちが自由に動き回ったり遊べる場所があまりなかったので最大限活用するために従来の母子室と台所の部分を礼拝堂に拡張する工事に取り組みました。一階に住んでいた牧師家族は、別に部屋を借りて移り住むことになり、一階部分を改修し。更に身体障害者を受け入れるために考慮して一階にスロープの取り付けと化粧室を改修しました。こうして力と勢いが増し加わり、新会堂建設へと導かれてきました。
1995年の年間目標「あなたの口を大きくあけよ。」詩篇81:10 のみことばを 大友牧師を通して示され、教会は皆で祈り備えました。祈りは、祈りのカードによる祈りの貯金(10分ひとマスで毎日10分祈る。 )として蓄えました。半徹夜祈り会、礼拝前祈り会、礼拝後の現場祈り会等みんなで祈り続けました。
新会堂建設にあたり、私たちは現状を知る必要がありました。建設に導かれた主な理由としては、以下が挙げられました。
- よう壁がひび割れ、危険があったこと。
- 建物が古くなり、雨漏りしていた。
- 交わりの場所が狭くなってきたこと。
数年前から年一回「未来を語る会」で将来に向けて夢を語り合っていましたが、その夢が現実のものへと近づけられて行くに従って意見交換も回を重ねて行うようになりました。新会堂建設に向けて、他教会を訪問して見学したり、牧師が他教会訪問や奉仕等で出掛けた際にビデオ撮影などで資料を集め、皆で見聞を広め、礼拝メッセージや各集会などで語られるみことばによって励まし受けながら準備を進めていきました。会堂建設は全員一致のもとで始めたいと願っていましたが、残念ながらこの頃に数名の方が教会から離れました。教会は、当時弟子訓練と子供伝道の二本柱で、主の導きを求めながら信じて示されたことをひとつ一つを行い、押し出されて前進していました。力と勢いが増し加わり、試されながら、また、問題を抱えながら大きく揺り動かされ、大きな変化の中(内面的に新しく造り変えられること)に置かれていました。こうして主のみわざは、推進され、霊的祝福と共に新会堂が1999年に完成。一同心から主のみわざをほめたたえ、喜びに満たされました。
その後駐車場用地として、会堂北側の土地を2004年に購入しました。2009年には、将来子供のための教育館を建てるというビジョンの元、会堂南側の土地を購入。2010年には副牧師家族のために中古の一軒家を会堂の近くに見つけ購入。東日本大震災が起き、購入していた南側の土地にはボランティア達が宿泊できるボランティアセンターが建設され、多くの方々がそこに寝泊まりし、支援活動をしてくださいました。この土地が震災前に与えられていたことは、神のご配慮でした。2017年度で「ホープみやぎ」の活動は公には終了を宣言し復興支援活動に一区切りがつきました。その後もしばらく、ボランティアセンターは、震災を通して関係ができた海外からの短期宣教チームの宿泊場所として、また「ホープみやぎ」の後継団体であるフードバンク「いのちのパン」の倉庫として用いられました。2018年4月に、教会から徒歩2分の多賀城市下馬にある一軒家を購入し、ボランティアセンターの宿泊機能をそこに全て移管しました。ボランティアセンターは、本格的に子どもたちの教育館として使われ始め、名称も「ホープハウス」から「エスピカ館」へ変更しました。
c)大友幸証牧師の時代(2019年4月~現在)
2021年3月にはエスピカ館南側に隣接した一軒家(旧吉澤家)を購入し、いのちのパンの倉庫機能を全てエスピカ館からそこに移管し、「ホープハウス」という名称もこの一軒家に移しました。
子どもたちがより快適に過ごせるように、エスピカ館に2020年8月にエアコンを取り付け、続く2021年2月にはボルダリングウォールを設置し、2021年7月には彼らが広く走り回れるようにホール拡張工事を実施しました。2023年3月いのちのパンと共同で、10人乗りバンのリースを開始。2023年9月には会堂の1階ホールに2基、協力な業務用エアコンを設置しました。
<2024.8.15加筆修正>