塩釜聖書バプテスト教会
Shiogama Bible Baptist Church
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知らないことも恵み

6/25/2025

 
さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。
(出エジプト記 13:17-18 JDB)​


エジプトの王ファラオは、寄留していたイスラエル人を手放したくはありませんでした。イスラエル人が、良い労働力だったからです。神が選び指導者として立てたモーセは、この王に対して何度もイスラエルの民を出て行かせるようにと伝えました。しかし王は中々イスラエルを出て行かせませんでした。驚くほどこのエジプトの王は頑強でした。そのために、エジプトは神によってもたらされた多くの災いを体験することになりました。最後は、エジプトのすべての長子が殺されてしまうという恐ろしいことが起きました。最終的に、ファラオは渋々イスラエルを出て行かせました。

このようにしてイスラエルは約束の地であるカナン(現在のイスラエル)に向かって旅を開始しました。民の数は非常に多く、男子だけ60万人いたそうです。エジプトからカナンへは北上していかなければなりませんでしたが、通常その道すがらペリシテ人の土地を通らなくてはなりませんでした。しかし神は、民がペリシテ人を見て、心変わりしてエジプトに戻りたいと言わないように、その近道には導かれませんでした。

ファラオは頑なでしたが、イスラエルの民もまた頑なでした。彼らは中々神を信じる続けることができませんでした。困難が起こるたびに、モーセに文句を言い、エジプトに戻りたいと言いました。

神はこのイスラエルの弱さを知っていました。ですので、見せる必要のない事柄に関しては、彼らには見せませんでした。彼らの信仰がさらに揺らぐことがないようにする配慮でした。

神が私たちから遠ざけている情報もあるいはあるかもしれません。それは神が私たちの弱さを知っておられるからです。知らないことも恵みであり、神の配慮なのです。

あなただけではなく

6/23/2025

 
しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
(マルコの福音書 5:19 JDB)

イエスの時代、悪霊に憑かれて獣のようになり、墓地の中に一人で住んでいる男がいました。彼は毎日叫び続けて、近くを通る人たちに恐怖を与えていました。

彼は誰の言うことも聞かず、誰も彼を制することができませんでした。それは彼が悪霊によってものすごい力を手に入れて、人々が彼を捕らえようとして使った鎖すら引きちぎってしまっていたからです。


家族にとって彼の存在は非常に大きな悩みの種でした。もはや彼が生き絶えるまで、なすすべはありませんでした。

しかし、ある日イエス様がわざわざこの男性の元に来てくださり、彼の中に入っていたすべての悪霊を追い出しました。すると、この男性は正気に戻り、人々を驚かせました。

この男性は自分が悪霊から解放されたのを知ると、イ様の弟子になりたいと考え、そのことを伝えました。しかし、イエス様の答えは今日の聖書の箇所の通りでした。

イエス様が彼に命じた事は、彼が苦しませて来た家族のもとに帰り、神がどれほど大きな哀れみを彼に注いでくださったかを伝えるようにということでした。

イエス様は、この男性の人生もそうですが、その背後で痛みを背負って生きていた家族の人生もケアしておられたのです。

神の愛はあなたに注がれています。しかしそれはあなたに留まらず、あなたの背後にいる家族にも注がれています。


家族を大切にしましょう。そしてどれほど神が素晴らしい事を自分にして下さったかを家族に伝えましょう。神がその事を願っておられるからです。










困難は付き物

6/20/2025

 
​彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」
(出エジプト記 5:21 JDB)


紀元前15世紀ごろの人物であるモーセは、エジプトで迫害されていた同胞のイスラエルの民を救うため、神に命じられてエジプトの王パロに民を別の地に出て行かせるようにとお願いしました。しかしその事がパロの怒りを引き起こし、イスラエルの民へのエジプト人の迫害がさらに増しました。このことで、今度はイスラエルの民がモーセを叱責するようになりました。それが今日の聖書の言葉です。

神に従ったのにも関わらず、モーセはパロの反感を買い、同胞の反感を買い、のちには最も近しいリーダーグループからも反感を買いました。次々と上がってくる苦情に、彼の心は疲れていたのでは無いかと容易に想像できます。

しかし彼は一つひとつの反感の中にあっても、謙遜に神に従い続けました。結局エジプトからの脱出と、それに次ぐ約束の地(現在のイスラエルがある場所)への移動は時間をかけて達成されました。

神の御心、つまり神のご計画を実行に移そうとする時、大体の場合、私達は他の人々からの反感を買います。それは決してリーダーにとっては楽な事ではありません。

しかし、モーセのようなリーダーがいて、初めて神の国が拡がって行きます。大なり小なり、私達は神に召されて、それぞれの場所でモーセの役割を果たす必要があります。

「御国(みくに)が来ますように」と祈るように私達は主イエスから命じられていますが、その祈りには、モーセの様な役割を果たすための、私たちの覚悟も含まれている様に思います。

語る前に生きる

6/12/2025

 
「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
(マタイの福音書 23:2-5 JDB)


イエス様は、当時の宗教指導者たちの教えには賛同していても、その生き方には賛同していませんでした。

聖書を正しく語ると言うことと、聖書を信じてその通りに生きると言う事は全く別のであることがわかります。

私は立場上、人にお話をすることが多いです。私が語る言葉が、正しさだけを人々に突きつけて、相手の心に罪悪感を植え付けるだけのものになっていないだろうか?と、今日の聖書箇所を読みながら深く考えさせられ、反省させられました。

聖書を「語る」という事は、聖書に「生きる」ということで、私が聖書に生きているならば、語る言葉はおのずと人々の心に届くものになっていくでしょう。


主よ、今日も聖書の言葉に生きる1日とさせてください。アーメン。

味わい 見つめよ。

6/10/2025

 
味わい 見つめよ。
主がいつくしみ深い方であることを。
(詩篇 34:8 JDB)


神を「味わい、見つめよ」という表現はとてもユニークな表現です。
それは、レストランでフランス料理を目の前にしているかのような情景を想起させます。
フランス料理は、その美味しさもさながらに、見た目も楽しむことができる料理です。
フルコースを頼めば、時間を忘れながら次々に出てくる料理一品ずつを見て、味わい、楽しみ、お腹だけではなく心も満足して帰ることができます。

私たちは、そのように神を味わうことができる、見ることができると言うのです。
主を味わうことの具体例として、主の「いつくしみ深さ」に目を留めるようにとダビデは語っています。
英語ではこの「いつくしみ深さ」を「Good」と表現してあります。神の良さ、素晴らしさに目を留めるのです。

「味わう」と言うことは、それを自分の中に取り込むと言うことです。
それは、主観的な体験のことを言います。私たちは人がどうやって料理を味わっているのかは分かりません。だから、個人的に、主を認め、主に自分の人生に入っていただくことで、初めて主が良いお方であることを味わうことができるようになります。

「見つめる」と言うのは、客観的な観察のことを指します。
主を信じて歩んでいる人々の人生に、どのように良い神が働いているのかを観察することです。それは、他者がどのようにして食事を味わい楽しんでいるのかを見るのと似ていると思います。美味しそうに食べている人を見ると、こちらも幸せになりますよね。他のクリスチャンの「証し」を教会で聞いたり、オンラインで聞いたりするのは、私たちの信仰の成長のために役立ちます。

主観的にも、客観的にも、私たちは神を味わうことができるのです。
なんと贅沢なことなのでしょう!

主の麗しさを求めて

6/6/2025

 
一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
その宮で思いを巡らすために。
(詩篇 27:4 JDB)

これはダビデ王の詩篇です。
彼はイスラエルの王として、自分の王国が拡大していくことを望んでいたはずです。

でも彼が1番望んだ事は、神と時間を過ごす事でした。ここが他の王たちとダビデが決定的に違うところでした。

私たちはこの世の責任があります。しかし、神との交わり以上に大切なものはありません。

いつか、イエス様が再び迎えに来てくださる時、このダビデの祈りが実現します。

私たちもダビデのこの祈りに、心合わせ主が来られることを望みましょう。


リーダーの為の祈り

6/2/2025

 
あなたの心の望みを
主がかなえてくださいますように。
あなたのすべての計画を
遂げさせてくださいますように。
私たちは あなたの勝利を喜び歌い
私たちの神の御名により 旗を高く掲げます。
あなたの願いのすべてを
主が遂げさせてくださいますように。
(詩篇 20:4-5 JDB)


詩篇20篇全体が民によるダビデ王のための祈りだと理解されています。

4節、5節は、もちろん、横暴な王のための祈りではなく、良いことのために取り組もうとしているリーダーのための祈りです。

神はそれぞれの時代にリーダーを立て上げます。それは自然発生的な場合が多く、必ずしもそのリーダーが他者を導く者として整えられているわけではないこともあります。

ダビデ自身も羊飼いであり、イスラエル国家のために奉仕する王として整えられていたわけではありませんでした。ゆえに、彼は人々の祈りを必要としていました。

教会において、指導者のために多くの祈りが捧げられている場合は、豊かな祝福がその教会に訪れるでしょう。

リーダーの素質は訓練され、整えられて、初めて良い形で輝きます。ぜひご自分の教会の牧師のために、そして信徒リーダーのために祈りましょう。

    執筆者

    牧師の大友です。聖書から私が学んだことを分かち合っていきたいと思います。

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