塩釜聖書バプテスト教会
Shiogama Bible Baptist Church
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人生をどうとらえるか

4/30/2025

 
主よ お知らせください。
私の終わり 私の齢がどれだけなのか。
私がいかにはかないかを 知ることができるように。
ご覧ください。
あなたは 私の日数を手幅ほどにされました。
あなたの御前では 私の一生はないも同然です。
人はみなしっかり立ってはいても
実に空しいかぎりです。
セラ
まことに 人は幻のように歩き回り
まことに 空しく立ち騒ぎます。
人は蓄えるが だれのものになるのか知りません。

主よ 今 私は何を待ち望みましょう。
私の望み それはあなたです。
(詩篇 39:4-7 JDB)


以上はダビデによる詩篇です。

ダビデは、自分が旅人であり、人生の中に最終ゴールはない事を悟っていました。

あまりにも辛い現実にぶつかる時、私たちは落胆します。そして自分の身の上を呪います。「こんなはずではなかった」と。

あるいはどんなに成功しているかのように見える人生であっても、それはすぐに過ぎ去り、次の世代には忘れさられる事がほとんどです。

この地上の命が全てならば、いずれの人生も最終的には非常にむなしいものになります。

ダビデの人生も成功と失敗、喜びと裏切りの連続でした。彼は人生を呪う事はできましたが、そうはせず、今日の詩篇のように地上の歩みは全てでは無い事を、時々思い出していました。

そして天にて自分を待っている神に最終的な望みをおきました。

この神がどんなお方であるのかを知り続ける事が、私達の地上の生活の中で最も重要な事です。なぜなら、誰が待っているのか分からない所に、私達は行きたいとは思えないからです。


そう言う意味で、私たちの信仰生活は、神を新しく知り続ける旅路と言えます。

神を恐れる者の幸い

4/29/2025

 
私の心の奥にまで
悪しき者の背きのことばが届く。
彼の目の前には
神に対する恐れがない。
(詩篇 36:1 JDB)


詩篇の多くをダビデが書いています。
イスラエルの王だった彼は、常に内側にも外側にも敵がいました。信頼していた身内さえ彼を裏切る事がありました。

時代は違いますが、ローマ帝国でユダヤ地方を治めていたヘロデという別の王が新約聖書に出てきます。彼はかなりの芸術家でもあり、彼がデザインした建物(マサダ)は今でも残っています。この王はかなり疑心暗鬼な性格の持ち主で、裏切りが疑われる人物であれば、身内であっても殺しました。誰も信用せず、どんどん孤立していきました。

しかしダビデはどんなに追い詰められた状況であっても、その状況を俯瞰して見る能力があり、自分で相手を亡き者にしようとはしませんでした。

自分が神を恐れて悪から遠ざかって生きてさえいれば、神ご自身が、その状況に解決を与えてくださると信じていたからです。

神を恐れない者に関しては、神ご自身が相応しい裁きを行なってくださると信じれる人は幸いです。そうでなければ、ヘロデのように自分の手で物事を解決しようとして、更に不安の中に陥ってしまいます。

悪しき者は存在し私たちの人生を脅かします。しかしその中でも、神を認めて生きる人の心には平安が与えられます。


心の痛みからの解放

4/27/2025

 
悪しき者は心の痛みが多い。
しかし 主に信頼する者は
恵みがその人を囲んでいる。
(詩篇 32:10 JDB)


この詩篇32篇はダビデによって書かれたものです。

ダビデは非常に立派なイスラエルの王でしたが、同時に大きな失敗もした王でした。彼は神を信じていると言いながら、神を裏切り人を裏切るような行為をある時してしまいました。彼の良心は、彼を責め続けました。そしてそれは彼の体に不調をきたしました。彼の魂はうめいていました。

人間は「神に似せて創造された」と聖書は教えています。つまり神の性質を私たち人間は生まれながら持っています。私たちが何か悪いことをすると心が痛くなるのは、神がお持ちである「正義」や「愛」に反する行為を私たちがしているので、私たちの心は自然と不快感を感じるようになるのです。

ダビデはその心の痛みから解放されるために、自分の失敗を神と人との前に正直に告白して、その罪から離れようと決意しました。そうすることで彼の心の痛みは癒やされたのです。

聖書を読むと、ダビデの失敗に関する記述がいくつか出てきます。それは彼が特別に失敗が多かったのではなく、彼が周りに自分の失敗を素直に明かしていたからだと思います。

それくらいダビデは正直な男であり、その失敗にもかかわらず、神は彼のことを愛して、大いに祝福してくださいました。

ダビデは、自分の心の痛みは神によってのみ癒やされると知っていました。だから彼は、かず多くの失敗にも関わらず立ち上がることができました。

私たちもダビデのようにありたいですね。

約束のものを手に入れるために

4/23/2025

 
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」
(へブル人への手紙 10:36 JDB)


数年前一つの気になる木が庭の地面から生えてきました。幹の太さはまだ1センチくらいの木でした。表面は茶色で横に縞が入っていました。私はそれを見て桜の木なのではないかと思いました。

実は以前も桜だと思って植え直して育てた木がありました。しかしその木が桜の花を咲かせることはありませんでした。

だから今回もあまり期待もせずに、今回見つけた木を広い場所に植え替えました。毎年緑の葉は出てきましたが、花を咲かせることはありませんでした。なんの花も咲かせず、ただ大きくなっても邪魔なので、いつか切り倒そうと思っていました。

しかし今年の春、なんとその木から桜の花が出てきたのです!おそらく植え替えをしてから5年くらいは経っていると思います。私はとても嬉しくなり、妻や近所の人に、庭の木に桜の花が咲いたことを興奮しながら伝えました。今回は一部の枝だけから花が咲きました。年を追うごとに、より多くの枝から桜の花が芽吹くことを今から楽しみにしています。

ずっと祈っているのに答えられず、何の変化も見えず、その祈りが無駄のように思える時があります。でも神の御心に従って祈っているならば、その祈りは必ずいつか実を結びます。ただしタイミングは神様にお任せです。​
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キリストの復活の意味

4/19/2025

 
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
(ヨハネの福音書 20:29-31 JDB)

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」この言葉は、十字架で死に、三日目によみがえられたイエスが、弟子トマスに語ったものです。トマスは、他の弟子たちや女性たちが復活したイエスを見たという証言を聞いても、それを信じようとしませんでした。彼は、「自分の目でイエスを見て、手でその傷に触れなければ信じない」と語っていたのです。

イエスは生前、何度もご自身が死からよみがえることを弟子たちに伝えていました。それでもトマスは、その言葉を信じていませんでした。また、旧約聖書に記された復活の希望にも、心を向けていなかったのです。トマスの姿は、私たち人間の姿でもあります。見えるもの、触れられるもの、理解できるものを信じやすく、神の言葉や目に見えない真理を信じることは難しいと感じてしまうのです。しかし、私たちは考えなければなりません。果たして、私たちの見ている世界に、最終的な希望はあるのでしょうか。

イエス・キリストが復活を通して私たちに示したかったのは、彼が「死」に打ち勝つ力を持っておられるという事実です。人間は皆、「死」という現実に支配され、それを避けることができません。その死の訪れも、自分で選ぶことはできません。どれほど医療が発達しても、「死」という終わりを完全に防ぐことはできないのです。つまり、私たちの世界観は、死で終わることが前提となっています。

しかし聖書は、イエス・キリストの復活という歴史的出来事に基づいて、死で終わらない世界観を私たちに提示しています。キリストの復活は、偶然や作り話ではなく、旧約聖書で何百年も前から預言されていた約束の成就であり、神の計画の中で起こったことでした。

よみがえったイエスは、疑っていたトマスに語りかけ、「見ないで信じる者は幸いです」と言われました。神が歴史の中で示された「死に打ち勝つ力」こそ、キリストの復活です。トマスのように「見なければ信じない」と言いたくなる私たちに対して、神は確かな証拠を持って応えてくださいました。

そして聖書は、このイエスが神の子キリスト(キリスト=ギリシャ語で「救い主」の意味)であることを信じる者に、このイエスの名によって、死んで終わらない永遠のいのちの希望、死からよみがる復活の希望を与えると約束しています。

ぜひ皆さんにも、この復活の希望をイエスを信じて受け取っていただきたいと願っています。

最後の最後まで

4/15/2025

 
イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
(ヨハネの福音書 19:25-27 JDB)


今週は受難週です。キリストが十字架にかかられた事について、特に思いを巡らすひと時です。今日の聖書箇所はイエス様が十字架にかけられ、息を引き取る直前の事を語っています。

十字架刑に処せられた人は、磔にされた後、簡単に息を引き取る事が出来ず、痙攣と酸素不足の状態を繰り返しながら、苦しみと痛みを存分に味わいながら死ななけばなりませんでした。

その様な最悪な状況の中にあっても、キリストは周りの人々を心配されました。そして、自分の母親であったマリアを世話を弟子のひとりに任せました。当時は女性の立場は低く、何かしらの形で男性の庇護の元に入らなくては生活ができなかったからです。

人類の罪を背負うという大きな使命の中にあっても、イエスは自分の最も身近な家族の事を蔑ろにする事はありませんでした。「家族を大切にする」というテーマは聖書を貫いています。イエス様は十字架の上でも、家族を大切にされました。

どんな大きな仕事も、家族を犠牲にして良い理由にはならないですね。

誰に期待するのか

4/11/2025

 
.主よ 立ち上がり
人間が勝ち誇らないようにしてください。
国々が御前でさばかれるようにしてください。
主よ 彼らに恐れを起こさせ
国々に思い知らせてください。
自らが人間にすぎないことを。
セラ
(詩篇 9:19-20 JDB)


これは紀元前1000年ごろのイエスラエル王国のダビデ王によって書かれた詩篇の一部です。彼は王でありながら自分自身は神の前に何者でも無いことを認めていました。神はそのような謙遜なダビデのリーダーシップと、その国を祝福してイスラエルは豊かな国へと成長して行きました。

ダビデ王の統治から約400年後、イスラエルはダビデ王の様な謙遜な王を失い、バビロニア帝国に滅ぼされ、支配されました。帝国を最も栄えさせたネブカデネザル二世が当時の王でした。物凄い勢いで勢力を拡大させて、力で国々をねじ伏せ、それぞれの場所から優秀な人物は首都バビロンに連れてきて、自らの国の繁栄のために仕えさせました。

このネブカデネザル王は、ある時自分に似せた大きな金の像を作り、王が指定した時間に、その金の像を人々に拝ませました。どの時代においても、支配者の行き着くところは、自分自身を神のような存在に祭り上げる事ですが、この王もそのような事をしました。

しかし、拝まない人々がいました。それが、イスラエルから連れて来られた3人の男性達でした。彼らはその高い能力を見込まれて、地方を治める権威を与えられていた人々でした。しかしながら、金の像を拝まなかったので、王は彼らを呼び寄せて理由を聞きました。そうすると、彼らは自分たちが信じているイスラエルの神以外を礼拝する事はないし、そのためであれば死ぬ覚悟さえあることを恐れずに王に伝えました。

何でも支配できると考えていた王にとって、言うことを聞かない、自分を恐れないタイプの人々に出会うことは、大きな驚きであり、また怒りを引き起こすことでもありました。

王はこの3人を、火の中に投げ入れる様に命じました。火力を最大にしたために、その火の炉に近づいた王の家来達は焼け死んでしまいました。しかし火の中に入れられたこの3人は決して燃え尽きることはありませんでした。燃える火の中で、この3人に加えてもう1人誰かがこの3人と一緒にいました。それが誰だったのかは聖書は明確に語っていませんが、王にはそれが確かに見えました。信じる者と共にいてくださる神が、人の形をとって彼らと共にいてくださったと解する事ができます。

王は、彼らを火の中から戻し、彼らを助け出したイスラエルの神を褒め称え、この神がバビロニアの中で賛美されるように人々に命じました。どんなに大きな権力を誇る王であっても、本当の神を消し去ったり、神を信じる者の信仰を取り去ったりする事はできませんでした。彼はこの一件を通して、自分は神ではない事をはっきりと悟ったのです。

結局の所、この聖書の神が歴史を支配し、人の命を支配しておられます。ネット上では、他人を見下し、自分が知者である事を流布している人々をよく見かけます。しかし、最終的にはこの神がお許しにならなければ、何も物事は進んではいかないのです。

政情や経済が不安定になればなるほど、私たちはヒーローを求めます。しかし、どんな人であれ、この神の前では「人間にすぎない」のですから、高すぎる期待をしてはなりません。

歴史を動かし、本当の意味で人類を祝福し、幸いを与えてくださる神に、最も高い期待をかけながら、今日も歩んで行きましょう。

バランスの取れた信仰

4/10/2025

 
神は正しい審判者
日々憤る神。
立ち返らない者には 剣を研ぎ
弓を張って 狙いを定められます。
その者に向かって 死の武器を構え
その矢を燃える火矢とされます。 
(詩篇 7:11-13 JDB)


聖書に従えば、神は確かに私たちを命がけの愛で愛するお方ですが、同時に人の悪や罪に対して真剣に憤るお方でもあります。

私のメールボックスには毎日のように詐欺メールが届きます。そしてこう言ってきます。「あなたのアカウントが乗っ取られました。ぜひ情報をアップデートしてください。」なんと親切な言葉でしょうか。私の事を思って警告を与えてくれているのです。そしてその親切心に応えて、自分の個人情報をアップデートした途端、その情報は私のためではなく、悪意をもった人々に悪用されるようになります。

同じようにSNSでは優しい異性を装いながら、近づいてくる人もいます。「自分はクリスチャンです」と言いながら近づいてくる人もいます。しかし彼らが達成したいことは、私の幸せではなく、私の持っている資源や大切な物を奪ったり、間違った教えに引き込む事なのです。

私たちはそれらの詐欺師の顔を知ることはありません。彼らは匿名や偽名を使い、もっともらしいことを言って人々を惑わします。毎年このような人々によって被害を被る人たちがいます。被害総額は何十億円にもなり、あるいは、性的な搾取をされる若者たちもいます。

多くの場合、司法の手はそれらの人々に及ぶことはありません。彼らは素知らぬ顔をしながら善人を装い普段通りの生活をしているのです。死ぬまでその罪を償わないで生き延びる人々もいるかもしれません。

しかし私たちは安心して良いのです。司法は彼らを裁く事はできませんが、彼らを裁く神はいます。私たちはそれらの人々を、その正しく裁く神にお任せすれば良いのです。

これは何もインターネット上の詐欺だけではなく、普段の生活の中で行われる悪に対しても、神はその行いにしたがって正しく裁かれるお方です。それがどのように実行されるかは、神のみぞ知る事です。しかし、確かに神はその事を実行されるのです。

神は愛です。傷つく者の代わりに立ち上がり、傷つける者たちを相応しく裁くことも愛の行為の一つなのです。

神は愛だから何でも受け入れるわけではありません。私の罪によって傷つく人々のために、私を正しく裁くお方でもあります。だから、私は自分の罪が示されたら、それを認めて神の十字架の恵みを思いだし、悔い改めて、悪から遠ざる必要があります

神は愛のお方であり、裁きの方でもあります。この緊張関係を忘れて、私たちの意識がどちらかに傾く時、私たちの信仰生活はバランスを失い倒れてしまいます。旧約聖書の士師記に描かれているイスラエルの歩みを見てみると、そのバランス感覚が以下に大切かが分かると思います。

今日も豊かな主の恵みが皆様の上にありますように。

主の癒しが始まる!

4/9/2025

 
彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」
(エゼキエル書 47:8-9 JDB)


エゼキエル書は、将来主が与えてくださる回復のビジョンを多く描いています。その中の一つが、この神殿から流れ出る水のビジョンです。
神殿から流れ出てくる水は「神の臨在」から流れ出てくるものです。簡単に言うならば、「そこに神がおられる」(48:35)状態から、回復の水が流れ出てくると言う事です。ここで「海」と書かれている場所は、いわゆる「死海」です。一度行かせていただいたことがありますが、ものすごい塩分濃度が高い場所で、通常ならば人間が水に入れば沈むのですが、そこで海水浴をすると、決して体が沈むことはありません。ただ、ずっとその水に入っていると、逆に浸透圧で体から水が抜けて皮膚が荒れてしまうので、気をつけるようにと言われました。

海よりも遥かに高い塩分濃度のその場所は、まさに名前の通り「死海」であってどんな生物も生きていくことはできません。名前に「海」とはつきますが、それは大きな湖で、琵琶湖と同じくらいのサイズです。

エゼキエルの預言によると、その場所に神殿から流れる水が入ると、その場所が回復し、なんと魚が住み始めると言うのです。死んでいる海が生き返るというビジョンです。

私はこの預言がいつか実際に起きるのではないかと個人的には思っていますが、霊的な解釈をするならば、この預言が語っている事は神の臨在のあるところには回復がもたらされると言うことです。

私達がもし私達の人生に、本当の神を招き入れるならば、私達の人生の中で死んでしまっている事柄、例えば誰かとの壊れた人間関係、心の傷、許せない思い、家族間の確執、どうしようも無くなった経済状況、病気などが回復していくという事が言えるでしょう。それがどのような形で実際に実現していくかは、神のタイミングであり、地上の人生では回復しないでそのまま残り、後の世で完全な回復が与えられるということもあるでしょう。しかし確実に言えることは、神を私たちの人生に受け入れたとき、回復が私たちの内側で始まっているということです。

死海は人間の手によっては決して真水にはなりません。しかし神が私たちに与えてくださるビジョンはその場所が多くの魚の憩う場所、木々が生える水辺を提供する場所になるということです。主に期待しましょう。

きよさによって繋がる

4/7/2025

 
シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。(ヨハネの福音書13:9-11 JDB)

イエス様はご自身と弟子達との繋がりを表現する時、「きよい」と言う言葉を使われました。裏切りのユダはきよくないとここで語られています。つまり、ユダは本当の意味てイエスに繋がっていなかったのです。

ここで語られている「きよさ」は、二段構えになっています。ひとつは全身のきよさ。もう一つは足のきよさ。

この点に関しては、多くの解釈がありますが、大枠で言うならば、全身のきよさとは1度きりのキリストの十字架の贖い応答して与えられる罪の赦しについて表現していると考えられています。

足のきよさについては、私たちが日々犯してしまう罪についての自覚的な認識と悔い改めについて語っていると考えられています。

ユダだけきよくなかったと言う事はどういう意味なのでしょうか?彼の肉体はイエスと共にありましたが、彼の心はイエスと共には歩んでいなかったと言う事です。

他の箇所では、彼はイエスの宣教チームの会計係で、定期的に預けられていたお金の中からいくらか盗んでいた事が書かれています。

彼は最初からイエスを裏切ろうとしていたわけではないと思います。最初は純粋な気持ちでイエスの弟子になったと思います。イエスの救いについても、頭ではよく理解していたと思います。あるいはそれをかつては心の中で受け入れていたはずです。

しかし、彼が隠れた罪を悔い改めることなく、続けてしまったことによって、つまり足を洗うことがなかったので、本来、彼に与えられていた全身のきよさ、つまり救いを失ってしまったと言う可能性もあります。

私たちは、イエス様の十字架を通して与えられた「きよさ」によってイエス様と繋がっています。

しかし、イエス様を信じた後、その与えられたきよさを軽んじ、罪を犯し続けるならば、私たちはいただいた救いの恵みを取り逃してしまう可能性もあります。

与えられたきよさを大切にしていきましょう。それは私たちがイエスと正しい関係を保つために必要な基盤だからです。もし罪が示されたならば、そこから離れましょう。悔い改めましょう。きよさを追い求めて行きましょう。
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    執筆者

    牧師の大友です。聖書から私が学んだことを分かち合っていきたいと思います。

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