私をあわれんでください。主よ。
私は苦しんでいるのです。
私の目は苦悶で衰え果てました。
私のたましいも 私のからだも。
悲しみのうちに 私のいのちは尽き
嘆きのうちに 私の年は果てました。
私の咎によって 私の力は弱まり
私の骨は衰えてしまいました。
敵対するすべての者から 私はそしられました。
わけても 私の隣人から。
知り合いには恐れられ
外で私を見る者は 私を避けて離れ去ります。
(詩篇 31:9-11 SKY17)
これは紀元前1000年ごろのイスラエルのダビデ王が書いた詩です。
彼は聖書の中で、神を最も愛した王として記録されていますが、そのような信仰者であっても、心に大きな不安を抱えていたことが、この詩から伺えます。
信仰があれば、すべてが解決するのかと言えば、そうではありません。
むしろ信仰がある事で、自分の罪深さがより鮮明に浮かびあがり、そのような自分に愕然とするのです。
しかしだからこそ、その先にある神の救いを喜ぶことができるのです。
ダビデは信仰者としての歩みの中で、自分の近しい人たちや、友だちが離れて行くことを経験しました。
これは彼にとっては非常に苦しい事でした。信仰者はその信仰ゆえに、ある時点で他者から理解されなくなります。
しかし皆が離れて行く中でも、神は決して彼を見放す事はありませんでした。だからこんな弱音をダビデは神に対して吐くことができました。
人に愛されよう努力する人生には正直限界があります。人の顔色をいつも伺う必要があるからです。そしていつしか、自分の良心に反してまで相手の要求に応える事がその人の人生の中心になっていきます。これは、自分の尊厳を失う生き方です。
しかし、神を愛して生きるならば、人がどのように自分を評価しようとも究極的には関係ありません。そして尊厳を失う事もありません。
例えばキリストは多くの人々の恨みを買いました。しかし、自分の人生の使命を投げ捨てる事はありませんでした。神との関係の中で、自分の存在を確かめて、神との信頼関係の中で充足して生きていたからです。
SNSのフォロワーの多さや「いいね」の多さよりも、ただおひとりの神との信頼関係を築く事の方が1000倍大切です。
人の評価は変わります。しかし神の愛は変わらないからです。
私は苦しんでいるのです。
私の目は苦悶で衰え果てました。
私のたましいも 私のからだも。
悲しみのうちに 私のいのちは尽き
嘆きのうちに 私の年は果てました。
私の咎によって 私の力は弱まり
私の骨は衰えてしまいました。
敵対するすべての者から 私はそしられました。
わけても 私の隣人から。
知り合いには恐れられ
外で私を見る者は 私を避けて離れ去ります。
(詩篇 31:9-11 SKY17)
これは紀元前1000年ごろのイスラエルのダビデ王が書いた詩です。
彼は聖書の中で、神を最も愛した王として記録されていますが、そのような信仰者であっても、心に大きな不安を抱えていたことが、この詩から伺えます。
信仰があれば、すべてが解決するのかと言えば、そうではありません。
むしろ信仰がある事で、自分の罪深さがより鮮明に浮かびあがり、そのような自分に愕然とするのです。
しかしだからこそ、その先にある神の救いを喜ぶことができるのです。
ダビデは信仰者としての歩みの中で、自分の近しい人たちや、友だちが離れて行くことを経験しました。
これは彼にとっては非常に苦しい事でした。信仰者はその信仰ゆえに、ある時点で他者から理解されなくなります。
しかし皆が離れて行く中でも、神は決して彼を見放す事はありませんでした。だからこんな弱音をダビデは神に対して吐くことができました。
人に愛されよう努力する人生には正直限界があります。人の顔色をいつも伺う必要があるからです。そしていつしか、自分の良心に反してまで相手の要求に応える事がその人の人生の中心になっていきます。これは、自分の尊厳を失う生き方です。
しかし、神を愛して生きるならば、人がどのように自分を評価しようとも究極的には関係ありません。そして尊厳を失う事もありません。
例えばキリストは多くの人々の恨みを買いました。しかし、自分の人生の使命を投げ捨てる事はありませんでした。神との関係の中で、自分の存在を確かめて、神との信頼関係の中で充足して生きていたからです。
SNSのフォロワーの多さや「いいね」の多さよりも、ただおひとりの神との信頼関係を築く事の方が1000倍大切です。
人の評価は変わります。しかし神の愛は変わらないからです。
RSSフィード