「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。 」ヨハネ12:42-43
神学校の宣教論という科目でよく聞く言葉に「文化脈化」(contextualization)と言うものがあります。これは、宣教をする相手の文化を尊重し、その文化にあった宣教のあり方を模索するために使われる言葉です。なるべく不必要な争いを相手の文化の中で起こさないと言うニュアンスもここには含まれています。
イエスは確かに民衆に分かるように、当時の文化や風習を用いて真理についてお話をされました。種まきの例えなどはこれに当たります。しかし当時のユダヤ社会の中で、彼は宗教指導者たちとの間にかなりの軋轢を生み出していたことがわかります。
「文化脈化」の大義名分で、相手の文化を尊重しすぎて、真理を語らなくなる、語れなくなるのこともありますし、私自身も日本文化の中でそのような誘惑と常に戦っています。
当時の議員たちは高い地位にあった人々でしたが「パリサイ人たちを気にして」イエスを信じることを公にしませんでした。そうすることで、結局彼らは神を愛することをせず、人からの評価を受けたり、人からの攻撃を避けたりしようとしました。
私たちクリスチャンは、第一に神を愛する者です。相手に寄り添うことは大切です。しかしイエスの姿勢から私たちが学ぶことは、何でもかんでも妥協してはいけないということです。
福音の文化脈化は、隣人と争いを避けるための手法ではなく、福音をわかりやすく伝えるための手法です。
人からの栄誉はいつか消え去ります。最近テレビでひっぱりだこだった芸能人が次々と不祥事で、これまで積み上げて来た栄誉を一瞬にして失っています。人からの栄誉というものはそういうものです。
しかし神からの栄誉は永遠に続きます。たとえ私たちが失敗したとしても、神は諦めずに私たちを愛して下るお方です。だれに愛されたいのか、誰に評価されたいのか。
神からの栄誉を愛するものとなっていきましょう。
神学校の宣教論という科目でよく聞く言葉に「文化脈化」(contextualization)と言うものがあります。これは、宣教をする相手の文化を尊重し、その文化にあった宣教のあり方を模索するために使われる言葉です。なるべく不必要な争いを相手の文化の中で起こさないと言うニュアンスもここには含まれています。
イエスは確かに民衆に分かるように、当時の文化や風習を用いて真理についてお話をされました。種まきの例えなどはこれに当たります。しかし当時のユダヤ社会の中で、彼は宗教指導者たちとの間にかなりの軋轢を生み出していたことがわかります。
「文化脈化」の大義名分で、相手の文化を尊重しすぎて、真理を語らなくなる、語れなくなるのこともありますし、私自身も日本文化の中でそのような誘惑と常に戦っています。
当時の議員たちは高い地位にあった人々でしたが「パリサイ人たちを気にして」イエスを信じることを公にしませんでした。そうすることで、結局彼らは神を愛することをせず、人からの評価を受けたり、人からの攻撃を避けたりしようとしました。
私たちクリスチャンは、第一に神を愛する者です。相手に寄り添うことは大切です。しかしイエスの姿勢から私たちが学ぶことは、何でもかんでも妥協してはいけないということです。
福音の文化脈化は、隣人と争いを避けるための手法ではなく、福音をわかりやすく伝えるための手法です。
人からの栄誉はいつか消え去ります。最近テレビでひっぱりだこだった芸能人が次々と不祥事で、これまで積み上げて来た栄誉を一瞬にして失っています。人からの栄誉というものはそういうものです。
しかし神からの栄誉は永遠に続きます。たとえ私たちが失敗したとしても、神は諦めずに私たちを愛して下るお方です。だれに愛されたいのか、誰に評価されたいのか。
神からの栄誉を愛するものとなっていきましょう。