シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。(ヨハネの福音書13:9-11 JDB)
イエス様はご自身と弟子達との繋がりを表現する時、「きよい」と言う言葉を使われました。裏切りのユダはきよくないとここで語られています。つまり、ユダは本当の意味てイエスに繋がっていなかったのです。
ここで語られている「きよさ」は、二段構えになっています。ひとつは全身のきよさ。もう一つは足のきよさ。
この点に関しては、多くの解釈がありますが、大枠で言うならば、全身のきよさとは1度きりのキリストの十字架の贖い応答して与えられる罪の赦しについて表現していると考えられています。
足のきよさについては、私たちが日々犯してしまう罪についての自覚的な認識と悔い改めについて語っていると考えられています。
ユダだけきよくなかったと言う事はどういう意味なのでしょうか?彼の肉体はイエスと共にありましたが、彼の心はイエスと共には歩んでいなかったと言う事です。
他の箇所では、彼はイエスの宣教チームの会計係で、定期的に預けられていたお金の中からいくらか盗んでいた事が書かれています。
彼は最初からイエスを裏切ろうとしていたわけではないと思います。最初は純粋な気持ちでイエスの弟子になったと思います。イエスの救いについても、頭ではよく理解していたと思います。あるいはそれをかつては心の中で受け入れていたはずです。
しかし、彼が隠れた罪を悔い改めることなく、続けてしまったことによって、つまり足を洗うことがなかったので、本来、彼に与えられていた全身のきよさ、つまり救いを失ってしまったと言う可能性もあります。
私たちは、イエス様の十字架を通して与えられた「きよさ」によってイエス様と繋がっています。
しかし、イエス様を信じた後、その与えられたきよさを軽んじ、罪を犯し続けるならば、私たちはいただいた救いの恵みを取り逃してしまう可能性もあります。
与えられたきよさを大切にしていきましょう。それは私たちがイエスと正しい関係を保つために必要な基盤だからです。もし罪が示されたならば、そこから離れましょう。悔い改めましょう。きよさを追い求めて行きましょう。
イエス様はご自身と弟子達との繋がりを表現する時、「きよい」と言う言葉を使われました。裏切りのユダはきよくないとここで語られています。つまり、ユダは本当の意味てイエスに繋がっていなかったのです。
ここで語られている「きよさ」は、二段構えになっています。ひとつは全身のきよさ。もう一つは足のきよさ。
この点に関しては、多くの解釈がありますが、大枠で言うならば、全身のきよさとは1度きりのキリストの十字架の贖い応答して与えられる罪の赦しについて表現していると考えられています。
足のきよさについては、私たちが日々犯してしまう罪についての自覚的な認識と悔い改めについて語っていると考えられています。
ユダだけきよくなかったと言う事はどういう意味なのでしょうか?彼の肉体はイエスと共にありましたが、彼の心はイエスと共には歩んでいなかったと言う事です。
他の箇所では、彼はイエスの宣教チームの会計係で、定期的に預けられていたお金の中からいくらか盗んでいた事が書かれています。
彼は最初からイエスを裏切ろうとしていたわけではないと思います。最初は純粋な気持ちでイエスの弟子になったと思います。イエスの救いについても、頭ではよく理解していたと思います。あるいはそれをかつては心の中で受け入れていたはずです。
しかし、彼が隠れた罪を悔い改めることなく、続けてしまったことによって、つまり足を洗うことがなかったので、本来、彼に与えられていた全身のきよさ、つまり救いを失ってしまったと言う可能性もあります。
私たちは、イエス様の十字架を通して与えられた「きよさ」によってイエス様と繋がっています。
しかし、イエス様を信じた後、その与えられたきよさを軽んじ、罪を犯し続けるならば、私たちはいただいた救いの恵みを取り逃してしまう可能性もあります。
与えられたきよさを大切にしていきましょう。それは私たちがイエスと正しい関係を保つために必要な基盤だからです。もし罪が示されたならば、そこから離れましょう。悔い改めましょう。きよさを追い求めて行きましょう。