「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
(マタイの福音書 23:2-5 JDB)
イエス様は、当時の宗教指導者たちの教えには賛同していても、その生き方には賛同していませんでした。
聖書を正しく語ると言うことと、聖書を信じてその通りに生きると言う事は全く別のであることがわかります。
私は立場上、人にお話をすることが多いです。私が語る言葉が、正しさだけを人々に突きつけて、相手の心に罪悪感を植え付けるだけのものになっていないだろうか?と、今日の聖書箇所を読みながら深く考えさせられ、反省させられました。
聖書を「語る」という事は、聖書に「生きる」ということで、私が聖書に生きているならば、語る言葉はおのずと人々の心に届くものになっていくでしょう。
主よ、今日も聖書の言葉に生きる1日とさせてください。アーメン。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
(マタイの福音書 23:2-5 JDB)
イエス様は、当時の宗教指導者たちの教えには賛同していても、その生き方には賛同していませんでした。
聖書を正しく語ると言うことと、聖書を信じてその通りに生きると言う事は全く別のであることがわかります。
私は立場上、人にお話をすることが多いです。私が語る言葉が、正しさだけを人々に突きつけて、相手の心に罪悪感を植え付けるだけのものになっていないだろうか?と、今日の聖書箇所を読みながら深く考えさせられ、反省させられました。
聖書を「語る」という事は、聖書に「生きる」ということで、私が聖書に生きているならば、語る言葉はおのずと人々の心に届くものになっていくでしょう。
主よ、今日も聖書の言葉に生きる1日とさせてください。アーメン。
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