塩釜聖書バプテスト教会
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神の目が注がれる人々は

2/20/2026

 
主はこう言われる。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
あなたがたがわたしのために建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
これらすべては、わたしの手が造った。
それで、これらすべては存在するのだ。
──主のことば──
わたしが目を留める者、それは、
貧しい者、霊の砕かれた者、
わたしのことばにおののく者だ。


牛を屠る者が、人を打ち殺す者。
羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。
穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。
乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。
実に彼らは自分の道を選び、
そのたましいは忌まわしいものを喜ぶ。
わたしも彼らを厳しく扱うことを選び、
彼らに恐怖をもたらす。
それは、わたしが呼んでもだれも答えず、
わたしが語りかけても聞かず、
わたしの目に悪であることを行い、
わたしの喜ばないことを選んだからだ。」


(イザヤ書 66:1-4 SKY17)


この章は、イザヤ書の最後の章です。
神がイザヤを通して最後に語った事は、ご自分が目を向けている人々は、どんな種類の人々なのかということでした。


イスラエルには祭司と呼ばれる人たちがいました。民の代表として、神の前で礼拝を導く人々でした。祭壇の上で動物や穀物を神へのいけにえとして火で焼いて捧げる人々でした。しかし彼らは、神に喜ばれてはいませんでした。彼らは立派な祭壇を作り、規定に従いけにえを捧げていましたが、そこには心が伴っていませんでした。彼らは礼拝の時間は宗教者としての役割を果たしましたが、人生の中においては神を求めず、神の声に聞かず、自分の喜びを追い求めていました。


神は、私たちがどれほど宗教的な生き方をしていても、本質的な部分で神に従わないならば、つまり聖書の言葉に従わないならば、神の与えようとしている祝福にあずかることができないと教えます。


一方で、神が目を留める人々は、貧しい人々、試練の中にある人々、神の言葉を真剣に受け取り、恐れる人々です。それらの人々は、祭司のような宗教者ではありません。しかし心から神を求め、神に礼拝を捧げる人々です。


貧しさや試練は、決して喜ばしい状況ではありせん。しかしその状況が、神をに信頼するために役立つ場合が大いにあります。であるならば、試練や困難は決して信仰者にとってはマイナスな事ではないのです。


礼拝を捧げること、祈ること、聖書を読むこと、献金をする事、これらは宗教的な活動です。もちろんクリスチャンはこれらの事はしっかりと続けなければいけません。しかし同時に忘れてはいけない事は、これらのことをしていれば、後は何をやってもいいと言うことではないと言うことです。私たちの心が神につながっているのか、という事が問われているのです。













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    執筆者

    牧師の大友です。聖書から私が学んだことを分かち合っていきたいと思います。

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