塩釜聖書バプテスト教会
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速度ではなく方向性

2/6/2026

 
イスラエルの聖なる方、神である主は
こう言われた。
「立ち返って落ち着いていれば、
あなたがたは救われ、
静かにして信頼すれば、
あなたがたは力を得る。」
しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
あなたがたは言った。
「いや、私たちは馬で逃げよう」と。
そう言うなら、あなたがたは逃げてみよ。
また、「私たちは早馬で」と言った。
そう言うなら、あなたがたの追っ手はなお速い。
(イザヤ書 30:15-16 SKY17)


この聖書箇所は、預言者イザヤによって書かれたものです。イザヤは北イスラエルで活動した預言者で、当時アッシリアと言う巨大な帝国から強烈な脅しを受け、北イスラエルはエジプトに援助を求めました。しかしその行動は正しくはありませんでした。エジプトは援助した見返りとして、過分な見返りを要求し、支配をしてくる事は明白だったからです。


イスラエルの王や民は、本来神に助けを求め祈るべきでした。しかし彼らは神を求めず、自分たちの目に見える力に信頼しました。彼らは焦っていたのです。自分の力でなんとかしようとしたのです。できるだけ早く問題を解決したかったのです。しかしそれは一生懸命に墓穴を掘る行動だったのです。


そんな焦る人々に対して、神はイザヤを通して語られた言葉が今日の言葉です。私たちは追い詰められば追い詰められるほど自らの力でその状況が打破しようとします。しかしその行動が余計に状況を悪くしてしまうことがよくあります。


神はご自分に信頼するものを必ず助けてくださるお方です。


落ち着いて神がその状況に、不思議な形で介入してくださることに期待しましょう。


敵に直面した時、逃げる必要はあります。でも間違った所に逃げてしまうと、そこには別の敵が潜んでいます。


だから、問題に直面した時、慌てて走り出すのはやめましょう。騒ぎ立ててパニックになるのをやめましょう。まず神の前にひざまずいて祈りましょう。


神があなたの人生に介入してくださり、助けの手を伸ばしてくださる事に期待しましょう。


私たちの人生の海の嵐の中において、神は安全な港、隠れ場となってくださるお方です。その港の方向に進む事が大切で、自分の狭い視野だけで航路も調べず急いで舵を切り、右往左往するのは得策ではありません。

苦難の日に気落ちしたらあなたは弱い

1/28/2026

 
もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
あなたの力は弱い。 (箴言 24:10 SKY17)
この聖句は、かなり挑戦的な言葉を私たちに投げかけています。


困難の時に落ち込む事は当然です。しかしそんな私たちが、「弱い」と言われてしまうと、責められているように感じます。


しかしながら、この聖句は逆説的な神の励ましの言葉です。私たちがもし神に信頼するならば、神はその困難に立ち向かう力、勝利する力を与えてくださる、と言う約束でもあります。


そうです。私たちは弱いのです。しかし、その弱さの中に神が働き、神の力があらわされます。そして、困難の後、最終的には神への賛美が産まれます。


困難の時、信仰によって、私たちの力は強くなるのです。


「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
(ピリピ人への手紙 4:13 SKY17)

愛し愛され、赦し赦され

1/19/2026

 
愛を追い求める者は背きの罪をおおう。
同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。
(箴言 17:9 SKY17)
人が自分に行った過ちや失敗に対して、いつもそれを思い出して、相手を攻撃したり、あるいは無視をしたりする事が私たちにはあります。


特に自分の家族や親しい友人に対して、そのようなことをしてしまうことが多いのではないでしょうか。そして関係をいつもぎくしゃくさせてしまい、居心地が悪い環境を生み出してしまいます。


先日、私はあるNPOの交流会で初対面の方の団体名を間違って読みとってしまい、不快な思いをさせてしまいました。しかしすぐに自分の間違いを謝罪した所、その方は赦してくださって、その後親しくお話しをする事ができました。


もし、その方が私の間違いを許さず、交流会中に、ずっと私を無視したり、あるいは怒っていたら、私はとても辛く感じ、その方とは二度とお会いしたくない気持ちになったと思います。


人はみな不完全ゆえに間違います。だから、思わぬところで、人を傷つけてしまい、あるいは傷ついてしまいます。それが人の世です。そして私たちはその事に対して対処法を知る必要があります。


聖書は語ります。相手が真摯に謝ったのにも関わらず、なおも相手も赦さないのは、今度は赦さない方の問題になると。


自分の不完全さを認め、自らが赦されるべき存在であり、また相手を赦すべき存在であること、忘れないようにしましょう。


そこに愛があるのです。

私たちの希望、私たちの喜び

1/6/2026

 
主は季節のために月を造られました。
太陽はその沈むところを知っています。
あなたが闇をもたらされると 夜になり
あらゆる森の獣が這い回ります。
若い獅子は 餌食を求めて吼えたけり
神に自分の食物を求めます。
日が昇ると 彼らは退いて
自分のねぐらで横になります。
人は 自分の仕事に出て行き
夕暮れまでその働きにつきます。 

主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。
地は あなたのもので満ちています。
そこには 大きく広い海があり
這うものや生き物は数えきれません。
小さなものも大きなものも。
(詩篇 104:19-25 SKY17)
聖書は「はじめに神が天と地を創造した」という言葉で始まります。
世界はビッグバンで形成された、生き物は自然発生したと、私たちは科学の時間に教わりました。
しかし、この世界は調べれば調べるほど、精緻で法則に満ちており、その規則正しい運行によって、地上の全ての命が支えられています。ですからこんな素晴らしい世界を「たまたまできた」という形容詞で表すのは、あまりにも失礼だし、あまりにも軽薄です。たまたたまできた人間や動物には尊厳があるはずがないのです。「いのちは大切だ」などと教えることもできないのです。

しかし、聖書によれば、すべての自然界も人間も神が、その叡智をもってお造りになったと書かれています。そしてその神が、その素晴らしい作品である地球や、それを取り巻く天体を通して、私たち人間の命を支えてくださっているのです。だから、私たちの命は尊く、私たちの命は価値があります。私たちの人生に価値を与えてくださるのはこの神なのです。

世界中で、人は殺し合い、自分の権利を主張し合っています。世の権力者達は、人の命をなんとも思わずに、自分の個人的な計画や願望のために、それらの命を利用します。しかし、どんな権力者も、神が与えてくださったこの素晴らしい地球や宇宙の運行を止めることはできません。四季の移り変わりを止めることはできません。しかし、もし神が一ミリその手を動かして天体の運行をずらせば、人間はたちまち生きてはいけなくなるのです。

人間が本当に恐れて従うべきはこの世界をお造りになった唯一の神なのです。今日もこの素晴らしいお方を賛美して1日を始めましょう。

終わりの日には

12/30/2025

 
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
終わりの日に、
主の家の山は山々の頂に堅く立ち、
もろもろの丘より高くそびえ立つ。
そこにすべての国々が流れて来る。

多くの民族が来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を私たちに教えてくださる。
私たちはその道筋を進もう。」
それは、シオンからみおしえが、
エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、
多くの民族に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、
その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず、
もう戦うことを学ばない。
(イザヤ書 2:1-4 SKY2017)

これは紀元前700年ごろのイスラエルの預言者イザヤが、将来起こるであろう世の終わり、つまり終末について預言している箇所です。

その日はあらゆる国の人々がイスラエルの首都エルサレムに集められると書かれています。実はいま、エルサレムに世界中から人々が集まっています。イスラエルは紀元70年ローマ軍によって制圧されて、135年(バル・コクバの戦い)に完全に国を失いました。それ以降、ユダヤ人たちは地中海沿岸を中心に世界のあらゆる国々に散って住み始めました。

しかし1948年に奇跡がおきました。それはイスラエル国家が長い年月を経て、再び同じ場所に再建したのです。以来世界中に散らばっていたユダヤの血統を持つ人々がこの場所に戻ってきています。特に近年世界中でユダヤ人たちに対する迫害が強まり、逃げるようにしてイスラエルに戻って来る人々が増えています。彼らのパスポート上の国籍は、自分たちが生まれ育った国のものです。
このようにしてあらゆる国々の人々が、エルサレムに集められているのは、聖書の預言の成就が近づいていることを私たちに知らしめています。

次に、その日、神は各国の不正や争いを正しく裁かれます。その結果として、国同士は争いをやめます。
人々は武器を農業の道具に変えます。もやは武器には価値がなくなるからです。人間が理想としている社会を、神はいつの日か実現されます。

今イスラエルは戦争の最中にあります。聖書は「イスラエルのなすこと全ては正しい」とは一言も語っていません。むしろ、神に対する不誠実さによって引き起こされたイスラエルに対する災難の歴史が描かれています。70年のローマ軍による破壊もその一つです。しかしながら、聖書は一貫して「イスラエルは神に愛されている」を強調しています。神はどんなに不誠実であっても、諦めずに愛して、イスラエルとご自分の関係修復を歴史の中で達成されるのです。そして終わりの日は、このイスラエルやその首都エルサレムを中心に、世界に平和をもたらす計画を神はお持ちなのです。

クリスマスをなぜ祝うのか

12/17/2025

 
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
(ヨハネの福音書 1:1 SKY17)
この聖書箇所はイエス・キリストについての説明を使徒ヨハネがしているところです。

「はじめ」とは世界の初めのことです。すなわち天地創造の時です。

​天地創造の時、この地上には何も存在しておらず、神の「ことば」だけがそこにありました。そして、その「ことば」が、世界を創造したのです。そしてその「ことば」が、イエスであったということです。つまりイエスは神であったのです。

(ちなみに、新改訳聖書はこのイエスの神性を強調するために、あえて「言葉」を「ことば」という平仮名にしているようです。)

さて、イエスは、聖書を通して多くの言葉を残してくださいました。
例えば「受けるよりも与える方が幸いである。」(使徒20:35)という言葉です。

彼の人生は、まさにこの言葉通りの人生でした。

彼は人々の体と魂を癒し、嫌われた者たちの友となり、彼が持っている全てを他の人々のためにささげて、神を宣べ伝えました。

一方で彼は、神であるにもかかわらず、汚い家畜小屋に生まれ、家族や親戚から村八分にされ、宗教家たちから迫害され、弟子たちに裏切られ、最後は不当な裁判にかけられて十字架で死刑になりました。

彼は、ご自身が神であるということで人々から何かを奪うことも、威圧することもせず、逆に自分の人生を謙遜に人々に分け与えました。

そして最終的に神の救いの計画----人類が受けるべき神の裁きを、神なるイエスが代わり背負われて十字架の死を通して贖罪を完成し、人々に永遠の命を与える---を達成されました。

まさに「受けるよりも与える方が幸いである」をその人生において実践されたお方でした。

イエスにとって、ご自身が発した「ことば」は、他人へのメッセージだけはなく、ご自身の存在を表す「ことば」でもあったのです。

聖書を通して残されているイエスの「ことば」は、イエスが責任をもって発した言葉であり、信じるに値する言葉です。

クリスマスは、この「与える」神が2000年前に、この地上にお生まれになったことを記念してお祝いする日なのです。

信仰成長における再臨の重要性

11/21/2025

 
あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。
ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。
これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。
あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。
しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
(コロサイ人への手紙 3:4-10 SKY17)
最後の10節には、キリスト者の信仰と品性は「新しくされ続ける」とあります。

今の自分に満足できないとしても諦める必要はなく、成長させてくださる神を見上げる事ができるのは幸いです。

この成長の基盤となるのが、4節によると「キリストの現れ」つまりキリストの再臨です。

その日、キリストと出会う時に、私たちが罪から離れて、神に喜ばれようと生きたその生き方が、正当に評価されるのです。

それはキリストに対する恐れよりも、キリストに対する愛から生まれる生き方です。

キリスト者の成長は、再臨の希望に基づくものです。
再臨はまだ起きていない事で、軽んじられやすい事柄ですが、これを軽んじるならばその人の成長はありません。逆に再臨を本当の事として真摯に受け止める時、その人の信仰は大きく成長するのです。

誠実な神の愛

11/5/2025

 
罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、
捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、
捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、
あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、
あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。
(列王記 第一 8:46-50 SKY17)
この聖書箇所は、イスラエルのソロモン王が、父ダビデから受け継いだ神殿建設事業を終えて、神の前で人々を集めて、完成感謝の礼拝を捧げているときに、祈った祈りの一部です。

ソロモンは人が過ちを犯す存在であると言うことを認めていました。同時に神はその過ちに対して裁きを下すお方であると言うことも知っていました。

だから、もし人間が神の前に罪を犯して苦しみ、その苦しみに耐えられず心の底から悔い改めるなら、その叫びに神が耳を傾けてその人を助け出してくださるようにと祈ったのです。

実際にソロモンも、その後多くの過ちを犯しました。人生の途中で神を全く恐れない生活をしてしまったことで、多くの災難を自分の身と国全体に及ぼしてしまいました。大きな事としては国が2つに分かれてしまうと言う災難がありました。

しかし、彼は最後、戻るべき場所を知っていました。神はアブラハムに約束した祝福、ダビデに与えた約束に従って、ソロモンの罪を赦しました。痛みは残りました。しかし、どんな痛みもソロモンを神の愛から引き離す事はできませんでした。


この「愛」は、原語のヘブル語では「忠実、誠実な愛」とう言う意味がありまふ。人間がどんなに不誠実であっても、神の人間に対する愛の誠実さは永遠に変わることがないのです。


もし神の前に喜ばれない生き方をしているならば、神の前に悔い改め戻ってきましょう。神は誠実にその祈りを聞き、受け入れて下さいます。

祈りによる協力

10/24/2025

 
神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。
あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。
(コリント人への手紙 第二 1:10-11 SKY17)
パウロは宣教活動の中で、死の危険に何度も直面しました。その時彼を支えていたのは、人々の彼に対する祈りでした。「祈りによる協力」をパウロは信じていました。パウロは自分の命を惜しいとは思っていませんでしたが、自分が死んでしまうことによって宣教が進まなくなってしまうことは良くないことだと考えていました。ゆえに、自分の命が迫害者の手から守られることは重要なことでした。
祈りとは、神に信頼し、神に期待する行為です。当時のパウロの祈りの協力者たちは、物理的にはパウロから離れていました。しかし、祈りを通して霊的な意味では彼と共にいました。そして確かに神は、その祈りに応えて不思議な形で、パウロの周りにいた様々な人々の手足を動かし、心を動かし、環境を整えて、パウロの命を支えてくださいました。

祈りは決して小さな事柄ではありません。あなたの祈りが誰かの宣教の働きを大きく支えるのです。
どうか私のためにも祈ってください。私が日々神の声を聞き、その声に従い、人々の信仰生活の良き模範となっていけるようにお祈りください。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てる

10/14/2025

 
次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
(コリント人への手紙 第一 8:1-3 SKY17)
この聖書箇所は、偶像にささげた肉を食べても良いかどうかの議論の中で、パウロがコリントの教会の人々に語った事です。
知識として言うならば、本当の神以外の偶像は存在しないので、どんな肉でも食べて良いという答えを出す事が出来ました。
しかしコリントと言う異教世界において、ある人々にとっては、偶像にささげた肉はかつて自分たちが行っていた偶像礼拝の記憶を呼び起こし、彼らの信仰を阻害するものになり得たのです。
愛の原則として行動する場合は、前者は自分の知識によって肉を食べる事を主張するのでは無く、嫌な思いをする他のクリスチャンの為に、肉を食べる事を控えるのです。

聖書は知識として人々に確信を与えます。しかしそこに愛がなければ、その人は残念ながら聖書が本当に伝えようとしているメッセージを受け取ってはいないのです。
愛はケースバイケース。相手が傷つく恐れがあるならば、自分が持っている確信を言葉や行動にする事を控える必要も時としてあります。
問題は自分が持っている知識を絶対とし、相手を間違いとして批判し続ける事です。それぞれの人の行動には背景があります。その相手の背景や事情を知ろうとせずに一方的に断罪する事を聖書は許していません。まずは相手を愛する事です。知識は必要です。一方で知識は人を高ぶらせる危険もはらんでいます。

主よ、愛をもって人々の信仰を育む者とさせてください。忍耐と愛を持って人々の成長を見守る者とさせてください。アーメン。
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    執筆者

    牧師の大友です。聖書から私が学んだことを分かち合っていきたいと思います。

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