塩釜聖書バプテスト教会
Shiogama Bible Baptist Church
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誠実な神の愛

11/5/2025

 
罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、
捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、
捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、
あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、
あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。
(列王記 第一 8:46-50 SKY17)
この聖書箇所は、イスラエルのソロモン王が、父ダビデから受け継いだ神殿建設事業を終えて、神の前で人々を集めて、完成感謝の礼拝を捧げているときに、祈った祈りの一部です。

ソロモンは人が過ちを犯す存在であると言うことを認めていました。同時に神はその過ちに対して裁きを下すお方であると言うことも知っていました。

だから、もし人間が神の前に罪を犯して苦しみ、その苦しみに耐えられず心の底から悔い改めるなら、その叫びに神が耳を傾けてその人を助け出してくださるようにと祈ったのです。

実際にソロモンも、その後多くの過ちを犯しました。人生の途中で神を全く恐れない生活をしてしまったことで、多くの災難を自分の身と国全体に及ぼしてしまいました。大きな事としては国が2つに分かれてしまうと言う災難がありました。

しかし、彼は最後、戻るべき場所を知っていました。神はアブラハムに約束した祝福、ダビデに与えた約束に従って、ソロモンの罪を赦しました。痛みは残りました。しかし、どんな痛みもソロモンを神の愛から引き離す事はできませんでした。


この「愛」は、原語のヘブル語では「忠実、誠実な愛」とう言う意味がありまふ。人間がどんなに不誠実であっても、神の人間に対する愛の誠実さは永遠に変わることがないのです。


もし神の前に喜ばれない生き方をしているならば、神の前に悔い改め戻ってきましょう。神は誠実にその祈りを聞き、受け入れて下さいます。

祈りによる協力

10/24/2025

 
神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。
あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。
(コリント人への手紙 第二 1:10-11 SKY17)
パウロは宣教活動の中で、死の危険に何度も直面しました。その時彼を支えていたのは、人々の彼に対する祈りでした。「祈りによる協力」をパウロは信じていました。パウロは自分の命を惜しいとは思っていませんでしたが、自分が死んでしまうことによって宣教が進まなくなってしまうことは良くないことだと考えていました。ゆえに、自分の命が迫害者の手から守られることは重要なことでした。
祈りとは、神に信頼し、神に期待する行為です。当時のパウロの祈りの協力者たちは、物理的にはパウロから離れていました。しかし、祈りを通して霊的な意味では彼と共にいました。そして確かに神は、その祈りに応えて不思議な形で、パウロの周りにいた様々な人々の手足を動かし、心を動かし、環境を整えて、パウロの命を支えてくださいました。

祈りは決して小さな事柄ではありません。あなたの祈りが誰かの宣教の働きを大きく支えるのです。
どうか私のためにも祈ってください。私が日々神の声を聞き、その声に従い、人々の信仰生活の良き模範となっていけるようにお祈りください。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てる

10/14/2025

 
次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
(コリント人への手紙 第一 8:1-3 SKY17)
この聖書箇所は、偶像にささげた肉を食べても良いかどうかの議論の中で、パウロがコリントの教会の人々に語った事です。
知識として言うならば、本当の神以外の偶像は存在しないので、どんな肉でも食べて良いという答えを出す事が出来ました。
しかしコリントと言う異教世界において、ある人々にとっては、偶像にささげた肉はかつて自分たちが行っていた偶像礼拝の記憶を呼び起こし、彼らの信仰を阻害するものになり得たのです。
愛の原則として行動する場合は、前者は自分の知識によって肉を食べる事を主張するのでは無く、嫌な思いをする他のクリスチャンの為に、肉を食べる事を控えるのです。

聖書は知識として人々に確信を与えます。しかしそこに愛がなければ、その人は残念ながら聖書が本当に伝えようとしているメッセージを受け取ってはいないのです。
愛はケースバイケース。相手が傷つく恐れがあるならば、自分が持っている確信を言葉や行動にする事を控える必要も時としてあります。
問題は自分が持っている知識を絶対とし、相手を間違いとして批判し続ける事です。それぞれの人の行動には背景があります。その相手の背景や事情を知ろうとせずに一方的に断罪する事を聖書は許していません。まずは相手を愛する事です。知識は必要です。一方で知識は人を高ぶらせる危険もはらんでいます。

主よ、愛をもって人々の信仰を育む者とさせてください。忍耐と愛を持って人々の成長を見守る者とさせてください。アーメン。

体も大切

10/13/2025

 
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
(コリント人への手紙 第一 6:19-20 SKY17)
聖霊を受け取ると言う事は霊的な事柄であるにも関わらず、その影響は体にも及んでいるとパウロは語っています。それゆえ不倫や売春など、体に関わる罪は避けるようにとも語っています。

私たちの信仰を頭の中の概念的な事柄と捉えてはいけません。私たちの信じている事は、私たちの全領域に関わる事です。ですから、私たちは自分の体も、他人の体も大切にするのです。

聖書を理解するためには、、、

9/30/2025

 
兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
(ローマ人への手紙 10:1-3 SKY17)
パウロは同胞のユダヤ人たちの熱心さを認めつつも、彼らがキリストを受け入れない為に、真の知識に達しておらず、結局は彼らは神の為にではなく、自分の為に生きている事を指摘しています。

旧約聖書を読み解く鍵はイエス・キリストです。キリストを神として受け入れるなければ、真の意味で聖書が理解出来ないのは、今も同じです。

聖書を単なる歴史書や神話として読むか、それとも救いにいたる真理の言葉として受け取るかは、まさにこの事にかかっているのです。

最良のものが与えられる

9/29/2025

 
わたしは あなたの神 主である。
わたしが あなたをエジプトの地から連れ上った。
あなたの口を大きく開けよ。
わたしが それを満たそう。
(詩篇 81:10 SKY17)


しかし主は 最良の小麦を御民に食べさせる。
わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ち足らせる。」
(詩篇 81:16 SKY17)
信仰の心を持って、自分に与えられた神の国の働きのビジョン達成を、大きく信仰の口を開いて神に求める時、神は最善の結果を私たちに与えてくださいます。
神は私たちの信仰の度合いに従い、恵みを注いでくださいます。信仰とはどれくらい神に信頼するのかと言う事です。自分に能力が無くても、神が必ず成し遂げてくださると信じるのです。

御国が来ますように!

イエス様の心の広さ

9/27/2025

 
しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
(マルコの福音書 9:39-41 SKY2017)

キリスト教の歴史は、神学の歴史でもあります。

聖書をどのように捉え、どのように読み、どのように解釈するのかは、その時代背景によって大きく変わります。例えばかつてのヨーロッパのように100%クリスチャンのような環境で生まれた神学と、日本のようにほとんどクリスチャンがいない環境で生まれた神学とでは当然のことながら大きな違いがあります。

歴史の中で生まれてきた各神学に従い「教派」と呼ばれる教会の群れも生まれてきました。カトリック、ルター派、改革派、バプテスト派、メソジスト派、聖霊派などがそうです。終末論、聖さん論、教会論、リーダーシップのあり方、バプテスマのあり方、千年王国の理解、イスラエルに対する考え方などで各派主張が違います。

各派、自分達の神学とその伝統を大切にしているため、自分達だけで集まり、あまり他の教派と関わりを持たなくなる場合があります。そうするとどうしても、独善的になったり、他の考え方に対して批判的になったりしてしまう場合があります。

上記の聖書箇所でも、イエス様の弟子たちが、他の人々がイエスの名前を使って活動することに、とても批判的になっています。しかしイエス様は「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」と語られています。これは弟子たちにとって大きな視点の変換でした。

私たち現代に生きるクリスチャンも、このようなイエス様の視点が求められているように思います。独善的になり、自分達だけが神の御心を行っていると考える誘惑から守られる必要があります。


基本的にイエス様は、ご自身に反対しない人々、あるいはクリスチャンでなくてもクリスチャンを応援してくれる人々を敵とは見なしておられないということは忘れないでいたいものです。

私たちはどうしても心が狭くなりがちです。しかしイエス様の心はこんなにも広いのです。

暗闇から光へ

9/17/2025

 
私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』
(使徒の働き 26:15-18 SKY2017)
イエス様は、人々が闇の支配者であるサタンの支配の中を歩んでいると語られました。
神の形に似せて創造された人間は、神の善と義を受け継いでいます。しかし、アダムとエバがサタンにそそのかされて罪を犯し、その「神の形」は非常にいびつな形になってしまいました。そのいびつな形は、オリジナルにはなかった他者を傷つけてしまう鋭利な部分(聖書では「罪」と呼んでいます)も持ち合わせるようになりました。だから、人間が生きている社会に身を置けば、お互いに、精神的、霊的、感情的な部分で、何かしらの傷がつくようになってしまったのです。どんな良いと思われる人々に囲まれているとしても、その事は起きてしまいます。

その惨めな状態をイエス様は「サタンの支配」と言いました。サタンによってもたらされた、人の罪の世界です。この世界から私達を引きあげる為に、主イエスは、この地上に来てくださり、十字架を通して救いの道を提示してくださいました。そして、ご自身が地上に残された聖霊様を救われた人々の上にお与えになりました。そしてその聖霊様によって、私達は、本来人間があるべき姿に少しずつ戻されて行くのです。

賛美の重要性

9/16/2025

 
神よ 私の心は揺るぎません。
私の心は揺るぎません。
私は歌い ほめ歌います。
私のたましいよ 目を覚ませ。
琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。
私は暁を呼び覚まそう。
(詩篇 57:7-8 SKY2017)
ダビデは敵に追い込まれた時に、賛美を歌う事にしました。演奏には琴や竪琴が使われました。
そうする事で、彼は失望によって眠ってしまっていた自分の魂を目覚めさせて、天にまで及ぶ神の素晴らしさに目を留めさせたのです。

賛美とは神に向かい歌うものですが、同時に自分自身への語りかけでもあります。それを助けるために良い歌詞が必要であり、良い演奏が必要です。楽器は人の心を開く神から与えられた大切なツールです。

ただ、賛美には様々なスタイルがありますので、好みは分かれるかもしれません。

ダビデはかつて、敵の手に渡ってしまった神の箱が自分の町に戻った時、ものすごくはしゃいで賛美しました。しかし当時の妻はその事を喜ばず、冷ややかな目で夫を見ました。そのスタイルは彼女の好みではなかったのです。しかし、彼女のこの夫に対する行為は神に喜ばれませんでした。妻とは裏腹に神はダビデの賛美を喜んで聞いておられたのです。


賛美は単なる好き嫌いの事柄ではなく、私たちの魂を神に向ける大切な行為です。だから違うスタイルの音楽で熱心に賛美をささげる者たちを、自分の好みだけで、簡単に批判せず、彼らの内側に働いておられる神に目を留めたいものです。


もしあなたが今日落ち込んでいるならば、賛美を主に捧げましょう。ちなみに私は、時々YouTubeでお気に入りの賛美を検索して、動画を見ながら主を賛美しています。

主が何とかしてくださる

9/15/2025

 
あなたの重荷を主にゆだねよ。
主があなたを支えてくださる。
主は決して
正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
(詩篇 55:22 SKY2017)

誰もが重荷を負いながら生きています。
例外は1人もいません。それが人の世だからです。
でも、苦しすぎる現実もあります。
ダビデは、最も信頼していた親友から裏切られ、心が引き裂かれそうになっていた時に、この詩を書きました。彼の心は非常に重かったのです。重荷はどこかに置かなければ、いつかその重さに潰されてしまいます。
しかし物理的な重荷はどこかに降ろせても、心の内側の重荷はどこにも降ろせません。ダビデは自分の心の重荷を神に委ねる事にしました。そして自分で相手にやり返す事なく「正しい者」として神の前に歩む決心をしたのです。ダビデは相手への憎しみ怒りは、全て神に伝えて、後は神にお任せしました。
暗闇に私たちを引きずり込もうとする重荷は、なるべく早く主にお任せしましょう。主が何とかしてくださいます。
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    牧師の大友です。聖書から私が学んだことを分かち合っていきたいと思います。

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