その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネの福音書 20:19-23 SKY17)
ーーー
この聖書箇所は、主イエスが十字架で殺されてしまった後、弟子たちが、ある家で隠れていたときの話しです。
彼らは、自分たちもイエスと一緒に、同胞のユダヤ人たちに殺されてしまうのではないかと考えていました。
そのような彼らに復活されたイエスが現れてくださいました。
そして、彼らに、「平安があるように」と伝えました。そして一つの命令を彼らに与えました。
「聖霊を受けなさい」と言う命令でした。聖霊とは神の霊です。イエスは復活後40日間地上に留まり、天に戻られましたが、その後で弟子達に天から聖霊を送られました。この聖霊はイエスの死と復活を信じた者達に与えられました。イエスの復活を否定するものには決して与えられませんでした。
そしてその命令とセットで「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」と主イエスは語られました。この「罪」はいわゆる犯罪のことを言っているのではなく、人の内側にある自己中心性の事を指しています。当時のユダヤ人たちは、まさにこの罪によってイエスを十字架にかけました。彼らは、イエスの教えが広まると、自分たちの伝統や考え方が脅かされると感じ、その存在を消すということで、脅威を取り除こうとしました。非常に自己中心的な考えによってイエスは殺されました。殺意や敵意も、この罪から始まります。最初小さいかもしれません。しかし、それを放っておくと、人は、大きな過ちを犯してしまいます。そのような意味においては、「罪」はその大小に関わらず恐ろしいものであり、神はその罪を正しく裁かなければいけません。そして残念ながら、すべての人は、この罪を抱えながら生まれてくるのです。
弟子たちは、イエスを殺した他のユダヤ人たちを恐れていたし、憎んでいました。あるいはいつか仕返しをしてやろうと思っていたかもしれません。しかし、それは全くイエスが願っていることではありませんでした。イエスは、弟子たちに、それらの人の罪を赦す事を願われたのです。
その願いは同時に、弟子たちに対するイエスの赦しの宣言でもありました。弟子たちは、十字架にかけられそうになっていたイエスを捨てて、逃げました。生前、あんなにもお世話になり、「命をかけてついて行く」と息巻いていたにも関わらずです。彼らは本当にひどいことをイエスに対して行いました。しかし、そんな弟子たちの罪を、まずイエスはお赦しになりました。しかしその赦しには条件がありました。それは、彼らが他のユダヤ人達の罪を赦す事でした。
主イエスは、私たちが誰かを憎んで、恨んで生きることを全く望んでいません。罪の連鎖から私たちを解放するために、まずご自身が、罪人の私たちのために、神の前に代わりに罪の刑罰を十字架で受けてくださいました。それによって私たちはもはや神の前に裁かれる事はありません。キリストがそれを実現してくださいました。そしてそのキリストは、同じように、私たちが誰かの罪を赦すことを願っておられます。その罪の赦しには、痛みが伴うかもしれません。しかしそれでいいのです。キリストがまず私たちのために痛んでくださったからです。罪の鎖は、誰かが、その罪の痛みを進んで引き受ける事でしか、断ち切る事はできません。
神はキリスト者達をその事の為に地上に遣わしてくださっています。そして「聖霊」によって神は私たちにその犠牲を払う力を与えてくださるのです。だから「聖霊を受けなさい」と「他人の罪を赦しなさい」はセットなのでしょう。
今日も聖霊様の力が、主を愛する皆様の上に豊かに注がれますように。
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネの福音書 20:19-23 SKY17)
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この聖書箇所は、主イエスが十字架で殺されてしまった後、弟子たちが、ある家で隠れていたときの話しです。
彼らは、自分たちもイエスと一緒に、同胞のユダヤ人たちに殺されてしまうのではないかと考えていました。
そのような彼らに復活されたイエスが現れてくださいました。
そして、彼らに、「平安があるように」と伝えました。そして一つの命令を彼らに与えました。
「聖霊を受けなさい」と言う命令でした。聖霊とは神の霊です。イエスは復活後40日間地上に留まり、天に戻られましたが、その後で弟子達に天から聖霊を送られました。この聖霊はイエスの死と復活を信じた者達に与えられました。イエスの復活を否定するものには決して与えられませんでした。
そしてその命令とセットで「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」と主イエスは語られました。この「罪」はいわゆる犯罪のことを言っているのではなく、人の内側にある自己中心性の事を指しています。当時のユダヤ人たちは、まさにこの罪によってイエスを十字架にかけました。彼らは、イエスの教えが広まると、自分たちの伝統や考え方が脅かされると感じ、その存在を消すということで、脅威を取り除こうとしました。非常に自己中心的な考えによってイエスは殺されました。殺意や敵意も、この罪から始まります。最初小さいかもしれません。しかし、それを放っておくと、人は、大きな過ちを犯してしまいます。そのような意味においては、「罪」はその大小に関わらず恐ろしいものであり、神はその罪を正しく裁かなければいけません。そして残念ながら、すべての人は、この罪を抱えながら生まれてくるのです。
弟子たちは、イエスを殺した他のユダヤ人たちを恐れていたし、憎んでいました。あるいはいつか仕返しをしてやろうと思っていたかもしれません。しかし、それは全くイエスが願っていることではありませんでした。イエスは、弟子たちに、それらの人の罪を赦す事を願われたのです。
その願いは同時に、弟子たちに対するイエスの赦しの宣言でもありました。弟子たちは、十字架にかけられそうになっていたイエスを捨てて、逃げました。生前、あんなにもお世話になり、「命をかけてついて行く」と息巻いていたにも関わらずです。彼らは本当にひどいことをイエスに対して行いました。しかし、そんな弟子たちの罪を、まずイエスはお赦しになりました。しかしその赦しには条件がありました。それは、彼らが他のユダヤ人達の罪を赦す事でした。
主イエスは、私たちが誰かを憎んで、恨んで生きることを全く望んでいません。罪の連鎖から私たちを解放するために、まずご自身が、罪人の私たちのために、神の前に代わりに罪の刑罰を十字架で受けてくださいました。それによって私たちはもはや神の前に裁かれる事はありません。キリストがそれを実現してくださいました。そしてそのキリストは、同じように、私たちが誰かの罪を赦すことを願っておられます。その罪の赦しには、痛みが伴うかもしれません。しかしそれでいいのです。キリストがまず私たちのために痛んでくださったからです。罪の鎖は、誰かが、その罪の痛みを進んで引き受ける事でしか、断ち切る事はできません。
神はキリスト者達をその事の為に地上に遣わしてくださっています。そして「聖霊」によって神は私たちにその犠牲を払う力を与えてくださるのです。だから「聖霊を受けなさい」と「他人の罪を赦しなさい」はセットなのでしょう。
今日も聖霊様の力が、主を愛する皆様の上に豊かに注がれますように。
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