塩釜聖書バプテスト教会
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今の歩みは決して無駄ではない

7/2/2026

 
イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、
(ルカの福音書 3:23 SKY17)


イエス・キリストの影響力は2000年以上経過した今でも、色褪せる事なく、世界中の人々に及んでいます。


彼の生涯は33年ほどでした。そして驚く事に、彼が実際に神の救いを人々に語り教え始めたのは彼が30歳の時でした。


ですから実際には3年半程しか、イエスは宣教活動をしていませんでした。


30歳までは、家業を継いで普通の大工として生活をしていたと言われています。


もっと早くから宣教活動を始めていれば、より多くの人々が癒されて、より多くの人々が救われたかもしれません。


しかし、イエスにとっては3年半で十分だったのです。いやむしろ、3年半こそが神が定めた宣教の時だったのです。


イエスにとっての前半の30年は無駄ではなく、偉大な3年半の宣教活動の準備期間だったのです。


神に信頼する者は、今自分の目の前にあるなすべき事に注力し、忠実に行うべきです。それが何か意味がない事のように感じる必要は全くありません。


神はその平凡と思える日々を通して、あなたを宣教の働きの為に整える準備をしてくださっているのです。


「すべての営みには時がある」と聖書の別の箇所は教えています。


神のご計画にお任せして、今を精一杯、神と共に生きていきましょう。もう一度確認します。今のあなたの人生の歩みは決して無駄ではありません。

友が離れて行く時

6/2/2026

 
​私をあわれんでください。主よ。
私は苦しんでいるのです。
私の目は苦悶で衰え果てました。
私のたましいも 私のからだも。
悲しみのうちに 私のいのちは尽き
嘆きのうちに 私の年は果てました。
私の咎によって 私の力は弱まり
私の骨は衰えてしまいました。
敵対するすべての者から 私はそしられました。
わけても 私の隣人から。
知り合いには恐れられ
外で私を見る者は 私を避けて離れ去ります。
(詩篇 31:9-11 SKY17)


これは紀元前1000年ごろのイスラエルのダビデ王が書いた詩です。


彼は聖書の中で、神を最も愛した王として記録されていますが、そのような信仰者であっても、心に大きな不安を抱えていたことが、この詩から伺えます。


信仰があれば、すべてが解決するのかと言えば、そうではありません。


むしろ信仰がある事で、自分の罪深さがより鮮明に浮かびあがり、そのような自分に愕然とするのです。


しかしだからこそ、その先にある神の救いを喜ぶことができるのです。


ダビデは信仰者としての歩みの中で、自分の近しい人たちや、友だちが離れて行くことを経験しました。


これは彼にとっては非常に苦しい事でした。信仰者はその信仰ゆえに、ある時点で他者から理解されなくなります。


しかし皆が離れて行く中でも、神は決して彼を見放す事はありませんでした。だからこんな弱音をダビデは神に対して吐くことができました。


人に愛されよう努力する人生には正直限界があります。人の顔色をいつも伺う必要があるからです。そしていつしか、自分の良心に反してまで相手の要求に応える事がその人の人生の中心になっていきます。これは、自分の尊厳を失う生き方です。


しかし、神を愛して生きるならば、人がどのように自分を評価しようとも究極的には関係ありません。そして尊厳を失う事もありません。


例えばキリストは多くの人々の恨みを買いました。しかし、自分の人生の使命を投げ捨てる事はありませんでした。神との関係の中で、自分の存在を確かめて、神との信頼関係の中で充足して生きていたからです。


SNSのフォロワーの多さや「いいね」の多さよりも、ただおひとりの神との信頼関係を築く事の方が1000倍大切です。


人の評価は変わります。しかし神の愛は変わらないからです。

何が心の真ん中にあるのか?

5/28/2026

 
「ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
(マタイの福音書 13:18-23 SKY17)


この聖書の箇所で、イエス様は、聖書の言葉を聞いた人々の4つの反応について語っています。


ある人々は、聖書の言葉を聞いても、それが大切だとは思わないので、心の奥深くに神の言葉を入れません。よって、その人の人生には何の変化も現れません。


一方である人々は、神の言葉が本当に大切だと思い、心の奥深くに神の言葉を入れ、神の言葉がその人の生き方を造り変えて、愛、喜び、安心、分かち合う気前良さなどの豊かな祝福を神からいただくことができます。


この聖書箇所は非常に示唆に富み、様々な教えが含まれています。しかし1つ確かに言える事は、神の言葉を自分の心の中で、どのように位置づけるかで、その人の人生において神の言葉が生きて働くか、あるいは死んで何の効力も発揮しないかが決まると言う事です。


ある人は、知的なレベルで神の言葉を受け止めるでしょう。知的なレベルなので、興味や好奇心はあっても、神の言葉は、その人に何の変化も与えません。


ある人は、少し進んで、聖書が神の言葉であると認めるでしょう。しかし、それを心の真ん中にではなく、外側の部分に置いているので、何か困難があった時には、神の言葉がその人を助ける事はありません。むしろ自分の心の中心に据えてある他の価値観や生き方に従って、物事を解決しようとするので、結局は何の変化も、その人の人生には起こりません。


しかし、心の真ん中に神の言葉を置き、神の言葉を自分の世界観と決めて生きている人々には、人の能力や考え方を超えた、神の祝福の約束が必ず実現していくのです。


牧師と言う立場で、多くの人々に神の言葉を分かち合い、その後の人生にも寄り添って来ましたが、このイエス様のお言葉は、確かにそうであると心から同意します。


キリストを信じると言う事は、人生の真ん中にキリストを置くということです。そうすることなしに、キリストが与えようとしている祝福は決してその人に及ぶ事はあり得ないと言う事です。


神の言葉なるイエス・キリストを心の中心にお迎えしましょう。

罪の鎖を断ち切る為に

5/8/2026

 
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネの福音書 20:19-23 SKY17)
ーーー
この聖書箇所は、主イエスが十字架で殺されてしまった後、弟子たちが、ある家で隠れていたときの話しです。


彼らは、自分たちもイエスと一緒に、同胞のユダヤ人たちに殺されてしまうのではないかと考えていました。


そのような彼らに復活されたイエスが現れてくださいました。


そして、彼らに、「平安があるように」と伝えました。そして一つの命令を彼らに与えました。


「聖霊を受けなさい」と言う命令でした。聖霊とは神の霊です。イエスは復活後40日間地上に留まり、天に戻られましたが、その後で弟子達に天から聖霊を送られました。この聖霊はイエスの死と復活を信じた者達に与えられました。イエスの復活を否定するものには決して与えられませんでした。


そしてその命令とセットで「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」と主イエスは語られました。この「罪」はいわゆる犯罪のことを言っているのではなく、人の内側にある自己中心性の事を指しています。当時のユダヤ人たちは、まさにこの罪によってイエスを十字架にかけました。彼らは、イエスの教えが広まると、自分たちの伝統や考え方が脅かされると感じ、その存在を消すということで、脅威を取り除こうとしました。非常に自己中心的な考えによってイエスは殺されました。殺意や敵意も、この罪から始まります。最初小さいかもしれません。しかし、それを放っておくと、人は、大きな過ちを犯してしまいます。そのような意味においては、「罪」はその大小に関わらず恐ろしいものであり、神はその罪を正しく裁かなければいけません。そして残念ながら、すべての人は、この罪を抱えながら生まれてくるのです。


弟子たちは、イエスを殺した他のユダヤ人たちを恐れていたし、憎んでいました。あるいはいつか仕返しをしてやろうと思っていたかもしれません。しかし、それは全くイエスが願っていることではありませんでした。イエスは、弟子たちに、それらの人の罪を赦す事を願われたのです。


その願いは同時に、弟子たちに対するイエスの赦しの宣言でもありました。弟子たちは、十字架にかけられそうになっていたイエスを捨てて、逃げました。生前、あんなにもお世話になり、「命をかけてついて行く」と息巻いていたにも関わらずです。彼らは本当にひどいことをイエスに対して行いました。しかし、そんな弟子たちの罪を、まずイエスはお赦しになりました。しかしその赦しには条件がありました。それは、彼らが他のユダヤ人達の罪を赦す事でした。


主イエスは、私たちが誰かを憎んで、恨んで生きることを全く望んでいません。罪の連鎖から私たちを解放するために、まずご自身が、罪人の私たちのために、神の前に代わりに罪の刑罰を十字架で受けてくださいました。それによって私たちはもはや神の前に裁かれる事はありません。キリストがそれを実現してくださいました。そしてそのキリストは、同じように、私たちが誰かの罪を赦すことを願っておられます。その罪の赦しには、痛みが伴うかもしれません。しかしそれでいいのです。キリストがまず私たちのために痛んでくださったからです。罪の鎖は、誰かが、その罪の痛みを進んで引き受ける事でしか、断ち切る事はできません。


神はキリスト者達をその事の為に地上に遣わしてくださっています。そして「聖霊」によって神は私たちにその犠牲を払う力を与えてくださるのです。だから「聖霊を受けなさい」と「他人の罪を赦しなさい」はセットなのでしょう。


今日も聖霊様の力が、主を愛する皆様の上に豊かに注がれますように。

破れ口に立つ方

4/18/2026

 
「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。
それで、わたしは彼らの上に激しい憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを滅ぼし尽くし、彼らの頭上に彼らの生き方を返した──神である主のことば。」
(エゼキエル書 22:30-31 SKY17)


紀元前586年。


イスラエルの首都エルサレムは、神を愛さなかったために厳しい裁きを神から受けることになりました。何度警告しても、彼らが神の言葉に耳を傾けなかったからです。神は遠くバビロニア(現在のイラン)の軍勢をエルサレムに送り、エルサレムは滅ぼし尽くされた。


警告のために遣わされた預言者は、聞く耳を持たないイスラエルのために嘆き悲しみました。彼らは「破れ口」に立って、イスラエルが神の裁きによって引き裂かれないように努力しました。しかし預言者たちにはそれができませんでした。


それから2500年以上経ったエルサレムに1人の男性が遣わされました。それがイエス・キリストです。


キリストが30数年と言うその短い人生の中で達成された事は、かつて預言者達が達成できなかった事、つまり神と人との間の「破れ口」に立ち、人々の代わりに、神の前に引き裂かれ、十字架にかかられて死に、ご自身を信じる者が神の裁きに会わないようにする、ということでした。


キリストは最初イスラエルに遣わされました。しかしイスラエルに住む人々はキリストを受け入れませんでした。それから2000年以上経過しましたが、神は今でもイスラエルと言う国が悔い改めることを待っておられます。神の、イスラエルに対する救いの物語は今でも続いているのです。


一方で、神の裁きは、イスラエルだけに下されるものではなく、神から離れて生きている人類一人ひとりに下されるものと聖書は語ります。聖書は、預言者達がイスラエルに語りかけたように、今、私たちに語りかけられている神の言葉であり、そこには警告が含まれています。


キリストを信じるという事は、神なき人生を送って来た事を悔い改め、破れ口に立ってくださったキリストを人類の唯一の救い主と認め、感謝し、キリストと共に歩む事を自覚的に選び取るという事です。


神なき人生を送り、世の名声や、富や、欲望を追求する人々には、神の最終的な裁きを待たずして、多くの痛みが発生します。特に家族関係や人間関係の中に痛みが顕著に現れます。それが「破れ口」です。


神を忘れて生きると言う事は、自分中心に生きる事です。その自己中心の生き方は、他者との関わりにおいても反映されてしまい、周りの人々を傷つけます。結果として、人間関係の中に破れ口が広がるのです。


しかし、キリストに従う者は、人を愛する事を教えられます。そしてその愛を実践していく時、破れ口が少しずつ回復していきます。痛みが少しずつ和らいでいくのです。これは、神がキリストを通して私たちに与えてくださる奇跡です。


神は私たちを滅ぼしたいのではありません。むしろ、痛みの中に生きている私たちに癒しと解放を与えたいと心から願っておられる方です。そして私たちと、仲良く共に歩んで行きたいと願っておられるのです。


今も、破れ口に立ち続けて、私たちの人生に回復を与えてくださるイエス様の守りと祝福が皆様の上にありますように。

人の幸せのために

4/7/2026

 
「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。
(エゼキエル書 3:17-19 SKY17)


預言者エゼキエルは、イスラエルに対して神から警告するようにと言葉を託されました。


人の罪や過ちを指摘する事は、決して楽しい作業ではありません。あるいは相手から恨みを買ったり、無視されたり、攻撃されたりします。


エゼキエルも同じ状況でした。しかし神は彼に責任を与えました。そしてイスラエルの民に悔い改めを迫るように伝えたのです。


彼は黙っていることもできました。しかし黙っているならば、今度はエゼキエルが神の裁きを受けなければなりませんでした。


神は私たちに忠告を与える方です。その忠告に従うかどうかはその人の自由です。しかし、その結果はその人自身で受け止めなければなりません。時としてあなたの過ちを指摘してくる人がいるかもしれません。その時、あなたは、その言葉が誰によって語られているのかを悟らなければなりません。あるいは神がその人を通してあなたに語りかけているのかもしれません。


あるいはあなたが誰かのことを指摘しなければならない時が来るかもしれません。それをそのまま語らずにいるならば、神の前に責任を取らなければいけなくなります。


しかし、覚えておきたい事は、その指摘が神の愛から出ていると言うことです。もし人が誰かの忠告によってその悪から離れることができるならば、それはその人の人生を破壊や破滅から守ることになります。神は誰も滅びることを望んでおられません。


ただし、あなたのその愛の言葉が、人に届かない時があるでしょう。嫌われる時もあるかもしれません。でもそれは仕方がないことです。神はあなたのその勇気ある行為を知って喜んでくださっています。


人が幸いな人生を送るために、時として誰かが嫌な役回りをしなければなりません。その役回りを、預言者エゼキエルは受け取ったのです。

神への愛の動機

3/24/2026

 
「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
(ルカの福音書 7:47 SKY17)


人々から嫌われていた女性が、イエスの元にやってきました。おそらくこの女性は自分の体を売って生活していました。


彼女はイエスのもとに来ると、ひざまずいて高価な油をイエスの足に塗りました。


こういった香油は、身分の高い人やお金持ちによって使われていました。彼女の行為は浪費であると捉えられました。また女性が男性の足を人の前で触ると言う行為も、一般的な感覚から言えば、当時はタブーでした。食事の席でこのことが行われたので、その場所いっぱいにその香りが満ちました。


人々は思いました。なぜイエスはこの人を受け入れているのだろうか?なぜ彼女がお金を無駄遣いしているの咎めないのか?


そんな彼らに対してイエスが語った言葉が今日の聖書箇所です。


彼女は自分のライフスタイルを好んではいませんでした。むしろそのようにしてしか生きていけない自分の身を憎んでいました。


当時は非常に強い男性中心社会でした。仕事は男性のものであると信じられていました。結婚できなかったり、戦争で夫を失ったりすると、女性は生活の手立てがありませんでした。ですから、人が嫌がる仕事につくしかありませんでした。不特定多数の男性と寝ると言う事は、聖書の教えにも反することでした。


ですから、彼女の魂はうめいていたのです。


罪とは、人間が神に対して犯す過ちのことです。犯罪は人が人に対して犯す過ちであり、人が作った法律によって裁かれます。しかし神に対する罪は、神ご自身がお裁きになります。


彼女の魂の叫びは、もちろん人から嫌われ、疎まれている事からも来ていましたが、それ以上に自分自身が神を裏切りながらしか生活できないその状況に対する嘆きから来ていました。


彼女は本来神を心から愛して生きていきたいと思っていました。しかし一方で、自分が神から遠く離れているとも知っていたのです。


イエスはそんな彼女に罪の赦しを宣言しました。それは神にしかできないことでした。イエスは神でした。だからそのことができたのです。


彼女はイエスを信じました。そして自分が神の前に受け入れられていることを心から喜びました。


その表れとして、高価な香油をイエスの足に塗ったのです。


そこにいた人たちは皆、イエスがなぜこのような行為を彼女にお許しになったのか、到底理解できませんでした。しかしイエスはこの行為を彼女の神に対する愛の表れとして受け止めたのです。


人それぞれ神に対する愛の表し方は違います。他の人から見れば突拍子もないようなことに見えることもあるかもしれません。


それでも神は喜んで受け止めてくださいます。罪許された者の喜びを、神は否定されません。


神の愛を知りたければ、自分がどれほど神の前に罪深いものであるのかを知る必要があります。


クリスチャンになるという事は、立派な自分になることではなく、自分が神からどれほど離れたものであるのかを自覚する事です。そしてそこに神に対する感謝と愛が生まれるのです。

神のものは神へ

3/12/2026

 
それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。
ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。
そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。
また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』
そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。
(マルコの福音書 12:1-9 SKY17)


農夫たちは主人に働く場所が与えられていました。彼らはぶどう畑で収穫したぶどうのほとんどを自分のものにすることができた。しかしその1部は主人に返さなければならなりませんでした。


主人は自分が当然受け取るべきわけ前を受け取るために、自分の部下を農夫たちのもとに遣わしましたが農夫たちは、その部下を恥ずかしめて追い返しました。主人は最終的に息子を遣わしましたが息子は殺されてしまぃした。農夫たちは収穫の全てを自分のものとしたいと考えたからです。


彼らは自分の生活を支えてくださっている主人に感謝せず、裏切り、自分のことしか考えませんでした。彼らはいずれ主人も殺してやろうと考えていた事は明白です。


しかし、主人は黙っていませんでした。そして農夫たちは自分達がしてしまった当然の報いを受けたのです。


これは人間と神の関係を表しています。
人間は、神によってたくさんの祝福を受けて生かされているにもかかわらず、神を無視し、神から与えられている神の言葉である聖書(部下)を無視し、神の独り子であるイエス・キリスト(息子)に対して敵対心をもっています。


私たちは私たちに与えられている人生の労苦の結実の大半を喜び、楽しむことができます。農夫たちも収穫の分け前のほとんどを自分のものとすることができました。しかし、すべてを自分のものとしようとする時、私たちは最終的に神の裁きを受けます。


私たちが神に対してできる最高の感謝の表し方は、聖書に従い、イエス・キリストに従う事です。神のものを神へとお返しする事です。


今日も私たちを生かしてくださっている神様に感謝して歩んで参りましょう。

神の目が注がれる人々は

2/20/2026

 
主はこう言われる。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
あなたがたがわたしのために建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
これらすべては、わたしの手が造った。
それで、これらすべては存在するのだ。
──主のことば──
わたしが目を留める者、それは、
貧しい者、霊の砕かれた者、
わたしのことばにおののく者だ。


牛を屠る者が、人を打ち殺す者。
羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。
穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。
乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。
実に彼らは自分の道を選び、
そのたましいは忌まわしいものを喜ぶ。
わたしも彼らを厳しく扱うことを選び、
彼らに恐怖をもたらす。
それは、わたしが呼んでもだれも答えず、
わたしが語りかけても聞かず、
わたしの目に悪であることを行い、
わたしの喜ばないことを選んだからだ。」


(イザヤ書 66:1-4 SKY17)


この章は、イザヤ書の最後の章です。
神がイザヤを通して最後に語った事は、ご自分が目を向けている人々は、どんな種類の人々なのかということでした。


イスラエルには祭司と呼ばれる人たちがいました。民の代表として、神の前で礼拝を導く人々でした。祭壇の上で動物や穀物を神へのいけにえとして火で焼いて捧げる人々でした。しかし彼らは、神に喜ばれてはいませんでした。彼らは立派な祭壇を作り、規定に従いけにえを捧げていましたが、そこには心が伴っていませんでした。彼らは礼拝の時間は宗教者としての役割を果たしましたが、人生の中においては神を求めず、神の声に聞かず、自分の喜びを追い求めていました。


神は、私たちがどれほど宗教的な生き方をしていても、本質的な部分で神に従わないならば、つまり聖書の言葉に従わないならば、神の与えようとしている祝福にあずかることができないと教えます。


一方で、神が目を留める人々は、貧しい人々、試練の中にある人々、神の言葉を真剣に受け取り、恐れる人々です。それらの人々は、祭司のような宗教者ではありません。しかし心から神を求め、神に礼拝を捧げる人々です。


貧しさや試練は、決して喜ばしい状況ではありせん。しかしその状況が、神をに信頼するために役立つ場合が大いにあります。であるならば、試練や困難は決して信仰者にとってはマイナスな事ではないのです。


礼拝を捧げること、祈ること、聖書を読むこと、献金をする事、これらは宗教的な活動です。もちろんクリスチャンはこれらの事はしっかりと続けなければいけません。しかし同時に忘れてはいけない事は、これらのことをしていれば、後は何をやってもいいと言うことではないと言うことです。私たちの心が神につながっているのか、という事が問われているのです。












小さくても良い。弱くても良い。

2/17/2026

 
最も小さい者も軍団となり、
最も弱い者も強国となる。
わたしは主。
時が来れば、速やかにそれをする。」
(イザヤ書 60:22 SKY17)


イザヤ書はイスラエルの預言者イザヤによって、紀元前700年頃に書かれた、預言の書物です。


イザヤ60章全体は世の終わりに来る神の国の具体的な姿を預言しています。


神に選ばれた国イスラエルは、神への不信仰の罪によって裁かれ、他の国々の侵略によって滅ぼされます。しかし神の選びは変わることなく、滅びて無くなってしまったようなイスラエルを再び神は回復し、強め、最終的には世界の祝福の中心とすると言うビジョンを神はイザヤに見せてくださいました。


クリスチャンの間では、これが実際のイスラエル国家に対する神の約束か、それともイスラエルの祝福を受け継いだクリスチャンへの約束か、で意見が分かれています。


いずれにしても、神によって選ばれた人々は世界の祝福の中心となると言う神のビジョンなのです。


ここでのポイントは、神によって選ばれた民は、そんなに大きい勢力ではないと言うことです。人々に見過ごされ、あまり重要視されてない、弱々しく見える人々のことを指しています。


そんな小さく弱い存在が、神の時に強められて、大きな勢力になって行くのです。


日本のクリスチャン人口の割合は、全人口に対して1%にも達していないと言う統計があります。


とても小さな勢力ですが、神の時が来たときに、教会は地域を祝福し、日本を祝福する存在になると言うことを、この預言は約束しています。


神の時が来るまで、マイノリティーな存在でいると言う事は、決して悲観的なことではありません。


存在し続けること、忠実であり続けることが、神の前に教会が求められていることであり、クリスチャン一人ひとりが求められていることです。


小さくても良い。弱くても良い。神の時に、神を愛して歩んで来た者たちは、高く引き上げられるのです。
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    執筆者

    牧師の大友です。聖書から私が学んだことを分かち合っていきたいと思います。

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